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小島 聡(こじま さとし、男性、1970年9月14日 - )は、日本のプロレスラー。東京都江東区出身。血液型A型。
オレンジを基調としたコスチュームがトレードマーク。VOODOO-MURDERSに加入していた時期は、黒と赤を基調としたコスチュームがトレードマークだった。 目次 [非表示] 1 来歴 1.1 新日本プロレス 1.2 全日本プロレス 1.3 天コジ復活、「F4」結成 1.4 全日本プロレス退団後 2 獲得タイトル歴 2.1 新日本プロレス 2.2 全日本プロレス 2.3 MLW 2.4 ZERO-ONE 2.5 プロレス大賞 3 得意技 4 入場曲 5 エピソード 6 関連項目 7 外部リンク 来歴 [編集] 新日本プロレス [編集] 学生時代に格闘技のバックボーンを持たず(柔道経験があるが特に大きな記録は持っていない)、一度はノーリツに就職したものの退職し、アニマル浜口ジムでトレーニングを積み、1991年2月に新日本プロレスに入門した。 同年7月、山本広吉(現天山広吉)戦でデビュー。1994年、ヤングライオン杯で全勝優勝を飾り、海外遠征に出発。1996年に凱旋帰国、中西学とブル・パワーズを結成しIWGPタッグ王座を獲得するなど活躍する。 怪我で長期欠場していた復帰後の1998年に武藤敬司に誘われnWo JAPANに加入、ヒールに転向する。体格やファイトスタイルが重複していた天山広吉とタッグを組む機会が増え、「天コジタッグ」として知られる。その後nWoが蝶野正洋率いるTEAM 2000に吸収されるとIWGPタッグ王座を当時の最高記録である6度の防衛を果たすなど名タッグとして活躍。 しかし武藤に追随する形で2002年1月31日に新日本プロレスを離脱、同年2月26日に全日本プロレスに入団した。 全日本プロレス [編集] 全日本に入団後、2003年は火祭り、チャンピオン・カーニバル初制覇、世界最強タッグ決定リーグ戦優勝など、数々の実績を残している。また、愚零斗孤士なるキャラに扮したり、A BATHING APEとのコラボレーションによる『BAPE STA!! PROWRESTLING ZEPPTOUR』をプロデュースし、興行を成功させている。同興行ではグレート・コスケなる覆面レスラーに扮している。2004年には、ハッスルに参戦、7月にはプロレスリング・ノアの東京ドーム大会で試合を終えた三沢光晴に対戦を直訴し、古巣に呼び寄せる形でシングルマッチが実現したが敗れた。 2005年2月16日、東京・代々木競技場第二体育館で川田利明を破り悲願の第33代三冠ヘビー級王者に就く。これにより小島が平成デビューの選手で初めての三冠王者となる(3大メジャーで三冠王座のみここまで平成デビューの王者が誕生しなかった)。この試合で川田が約16年間続けてきた平成デビューの日本人選手相手のシングル無敗記録も打ち破る。その4日後、新日本プロレスのIWGPとのWタイトルマッチで、59分45秒の激戦の末、脱水症状を起こした天山広吉を下して第41代IWGPヘビー級王者となり、全日本と新日本の至宝のタイトルを独占した。試合後には、IWGPベルトをリングに投げ捨てるなどの過激な挑発を行い、新日本勢を大いにヒートアップさせた。同年5月14日に陥落するまでの間、一度もIWGPベルトを巻かなかった。その理由として「新日本に居たときは喉から手が出るほど手にしたかったIWGPだけど、今の俺は全日本プロレスの小島聡だから」と理由を述べている(後に巻いておけばよかったかもと多少後悔している)。なお、四冠王者である間にターザン後藤一派の清水大会でターザン後藤&清水の画伯と対戦している。 四冠王者(三冠+IWGP)を奪取したことと、川田利明、武藤敬司、佐々木健介らを撃破して三冠を防衛した実績を評価され、2005年度のプロレス大賞MVPを獲得。授賞式の席では、話題賞を受賞したインリン様から挑発を受け、まんざらでもない様子を見せていた。 2006年は、「チャレンジする王者」を目標に掲げていた。プロレス大賞受賞直後に2005年12月29日ビッグマウス・ラウド第2回興行で柴田勝頼からの対戦要求に応えたことや、VOODOO-MURDERSのTARUの三冠挑戦を受諾したこと(いずれも小島が勝利)、HGの直訴を快諾してのハッスル・エイド2006の参戦はその表れと言えるだろう。7月3日太陽ケアに三冠ヘビー級王座は奪われてしまったが、新日本のG1 CLIMAXへ5年ぶりに出場し準優勝。8月28日にはアパッチプロレス軍で「ストリートファイト有刺鉄線ボードデスマッチ」という試合形式のデスマッチにも挑戦。9月17日世界Jr王者近藤修司とシングルで対戦し勝利を収めた。年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦では天山広吉とのタッグ「天コジ」を復活させ、優勝決定戦で諏訪魔、RO'Z組と対戦し最後は小島がRO'Zをラリアットで沈め勝利し優勝を果たした。 2007年2月17日の東京・両国国技館大会で鈴木みのるの三冠ヘビー級に挑戦するも、みのるの胴絞めスリーパーホールドで意識を失いピンフォール負けを喫した。7か月ぶりの三冠王者返り咲きには至らなかった。3月、武藤敬司不在のシリーズ「2007全日本プロレスEX」では、全大会を通じてメインに出場した。4月、5月シリーズはチャンピオン・カーニバルの結果から苦悩の日々が続き、その状態を利用してかTARUが小島にVOODOO-MURDERSへの入団を勧誘する。その勧誘に迷うが、吹っ切れて6月24日後楽園大会の第5試合終了後に、T28と真田聖也の若手コンビとユニット・AJFを結成し、新たに再出発を図ることを発表する。しかし、メイン終了後にまさかの裏切り。VOODOO-MURDERS入りを宣言し、全日移籍から初めてヒールとして活動することになった。 その後はヒールとしてリング上で武藤、健介を痛めつけており、全日のメインレフェリーの和田京平レフェリーにも暴行を加える。太陽ケアにいたってはイスで顔面を殴り、上顎を骨折させ欠場を余儀なくさせた。このことに対して、離脱後に自身のブログで「どんな理由があっても、相手に大ケガを負わせたことはプロとして最低の行為だった。」と自分を責めていた。8月26日、両国国技館においてパートナーTARUと世界タッグ選手権に勝利し世界タッグ王者となった。 しかしヒールになったはいいものの、『良い人』という印象はまったく拭えないでいた。 2008年の3月1日には両国国技館での三冠ヘビー級選手権試合が行われたが佐々木健介に敗れる。チャンピオン・カーニバル後には右肘負傷のため欠場していたが、7月8日、新日本の後楽園ホール大会でリングに登場して天山を救出。翌日には2年ぶりにG1に出場することが決定し、20日には全日本の後楽園ホール大会で復帰した。8月3日石川・産業展示館3号館にて行われた6人タッグ戦終了後、TARUとの仲違いからVOODOO-MURDERSを離脱した。 天コジ復活、「F4」結成 [編集] 本隊には戻らず、小島本人の意思で孤軍奮闘。8月8日には更新が途絶えていたブログを再開した。 G1から新コスチュームで登場。最終日の試合でTARUの乱入によって真壁刀義に破れ決勝進出を逃してしまう。また、5日後の後楽園ホール大会ではTARUとの一騎打ちが実現。ラリアットで攻めるも反則裁定で勝ち、その後もVMのメンバー達に甚振られているところを天山広吉に救出される。これによって、8月31日の両国大会で小島、天山対TARU、真壁の試合が行われ勝利した。 また、大和ヒロシとKAIが新ユニット結成を直訴。小島もこれを受諾し、新ユニットが結成された。新ユニットの名称を「F4」と発表。小島は天山とのタッグで世界タッグ、翌年にはKAIとのタッグでアジアタッグに挑戦したがいずれも敗れている。 天山とのタッグで新日本のG1 TAG LEAGUEに参戦。初戦で敗北するなど苦難の連続と思われたが、その後は破竹の快進撃でリーグ戦を駆け抜け、見事優勝した。2008年の世界最強タッグにも天コジで出場し、見事優勝を果たした。同年で両団体のタッグリーグ戦を制覇したのは史上初めてである。その結果が認められて翌2009年1月4日の東京ドーム大会でのIWGPタッグ選手権に挑戦することも決まったが、突如、天山の怪我により挑戦が取りやめになった。しかし、天山の復帰戦となった5月3日のIWGPタッグ次期挑戦者決定戦で敗れて、試合後にタッグ解消を示唆した。 9月26日、王者であった高山善廣を下して三冠ヘビー級王者に返り咲く。 しかし、2010年2月7日の後楽園ホール大会で、F4とブードゥーマーダーズとの負けたら解散マッチに敗れ、結成1年という短さで解散することになった。 3月21日には浜亮太に破れ三冠ヘビー級王座も失った。 全日本プロレス退団後 [編集] 4月23日、5月をもって全日本プロレスを退団するという記事が東京スポーツに掲載され、本人もブログでその事実を認めた。 7月11日、古巣である新日本プロレスの後楽園ホール大会に姿を表し、G1 CLIMAX参戦を表明。そのG1本戦では2カ月ぶりの復帰となるものの予選ブロックを5勝2敗で通過し決勝戦進出を果たす。決勝では棚橋弘至を破り、自身初であると同時に新日本プロレス所属外の選手として初のG1制覇という快挙を成し遂げた、10月11日に真壁刀義に挑戦しIWGPヘビー級王座を奪取した。 獲得タイトル歴 [編集] 新日本プロレス [編集] IWGPヘビー級王座 : 2回(第41代・第55代) IWGPタッグ王座 : 3回(第31代・第36代・第40代) パートナーは最初が中西学→後の2回は天山広吉。 G1 CLIMAX優勝 : 1回(2010年) G1 TAG LEAGUE優勝 : 3回(1998年・2001年・2008年) パートナーは最初が武藤敬司→後の2回は天山広吉。 全日本プロレス [編集] 三冠ヘビー級王座 : 2回(第33代・第40代) 世界タッグ王座 : 3回(第47代・第49代・第53代) パートナーは太陽ケア→カズ・ハヤシ→TARU。 アジアタッグ王座 : 1回(第75代) グレート・コスケとして。パートナーは獅龍)。 チャンピオン・カーニバル優勝 : 1回(2003年) 世界最強タッグ決定リーグ戦優勝 : 4回(2002年・2003年・2006年・2008年) パートナーは太陽ケア→カズ・ハヤシ→06・08年は天山広吉。 MLW [編集] MLW世界ヘビー級王座 : 1回(第2代) ZERO-ONE [編集] 火祭り優勝 : 1回(2003年) プロレス大賞 [編集] 2000年、プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞(&天山広吉) 2002年、プロレス大賞 技能賞 2005年、プロレス大賞 最優秀選手賞 得意技 [編集] 自身のニックネームである「コジ」を冠した技が多い。 ラリアット(小島式ウエスタン・ラリアット、継承ウエスタン・ラリアット) 新日本プロレス時代から使っていたが、全日本プロレス入団後、PWF会長として来日していたスタン・ハンセンから直接指導を受けた。ハンセンのラリアットからヒントを得てラリアットを習得したレスラーは星の数ほど多いが、直接指導を受けたのは小島が初めてである。そのため小島のラリアットを「継承ウエスタン・ラリアット」「豪腕ラリアット」と呼ぶこともあるが、あまり浸透していない。 新日本時代は「世界一のラリアッター」を自称しながら1試合中に乱発していたため、ラリアットに一撃必殺を求めるファンからは「塩」(しょっぱいの意味。元は相撲界の隠語で口ばかり達者で弱い力士の意。転じて面白くないプロレスを指すことも)とも酷評され評価が低かったが、全日本移籍後にハンセンの教授を経てからは使用頻度を少なくし、フィニッシュ・ホールドとしての説得力を獲得している。 新日本時代には「ぶん殴りラリアット」と呼ばれていた(他にもバカヤロー・ラリアット、世界一ラリアットとも)。 「継承ウエスタン・ラリアット」と「ぶん殴りラリアット」ではスタイルが異なる。「ぶん殴りラリアット」では、長州力のリキラリアットのように助走をつけて自らの片腕を相手の喉下に当て込み、そのままマットに叩き付けるようにしたり、あるいはそのまま自らの体ごとマットに浴びせ倒すようにしたり、とにかく力任せ・勢い任せのラリアットだった。「継承・ウエスタン・ラリアット」では、相手の体勢・自分の腕の角度・タイミング・スピード・全身の力の込め具合など、様々な要素を考慮し必要最小限の力で最大の威力を発揮するハンセンのラリアットに近いスタイルとなっている。具体的な形としては、自らの片腕を伸ばし、野球の打者がバットを振るかのように自らの足腰を支点にして、伸ばした片腕を振り、相手の顎を的確に引っ掛けてそのまま振り抜くというものである。三冠王座陥落後からはハンセンのように相手をロープに振って返ってきたところを助走せずにカウンターで当てるパターンも使うようになった。 いっちゃうぞエルボー 「いっちゃうぞ!バカヤロー!」の叫びと共にトップロープに上ってダイビングエルボー・ドロップを行う。エルボー・ドロップを敢行する直前、必ず足元を確認する。 ちなみに、「いっちゃうぞ!〜」は対戦相手に対してのアピールと思われているが、TVインタビューで小島が「俺がバカだから、自分に言っているんですよ」と発言したこともあり、真相は不明である。新日本末期からは観客と一緒に合唱するのが通例。2007年1月2日の後楽園大会ではトップロープから「あけおめ!」といいながらエルボー・ドロップを落とした。ラリアットと並ぶ小島の代名詞的な技であるが、本人曰く「ピンフォールが全く取れないのが悩み」。ただし地味に痛い技で、蝶野正洋のようにこれを嫌いな技として挙げるレスラーもいる。2004年に武藤に「いっちゃうぞエルボーで満足している」と指摘され、叫ぶ直前に攻撃されるようになってスランプに陥ったが叫ぶと見せかけてその場で相手にエルボー・ドロップを落としてダイビングエルボー・ドロップを行うようになって克服した。ヒールターンしてからは「いっちゃうぞ!バカヤロー!」は言わず無言でやる。1度だけやったがその時は観客から大ブーイングを浴びた。しかし、2008年のチャンピオン・カーニバルの棚橋弘至戦で行った時は歓声が上がっている。なお、ヒール離脱後には以前と同じように叫ぶようになった。 CCD(コジ・クラッシュ・ダイナマイト) 小島が三沢光晴と対戦した際に食らったエメラルド・フロウジョンの威力に魅了されて、自ら研究して完成させた技。エメラルド・フロウジョンと類似だが、落とす方向はエメラルド・フロウジョンと逆サイドである。持ち上げ方はボディスラムの要領で担ぎ上げる場合と、ブレーンバスターの状態からいく場合とがある。また佐々木貴の「D-ガイスト」にも似ている。たまにノーザンライト・ボムのような形にもなることがある。 技名の「コジ」は自らの愛称、「クラッシュ・ダイナマイト」は若手の頃の入場曲の名前から取り、初心に帰るという意気込みが込められている。 コジマ・カッター(コジコジカッター) 小島の行うダイヤモンド・カッター。小島がダイヤモンド・ダラス・ペイジに憧れていたことから使い出した。相手の頭部を自らの肩越しに掴んで自分を前方に投げ出すようにしてジャンプし、相手の顔面をリングに打ち付ける。試合の流れを変える際によく使用される。当初コジコジカッターともコジマカッターとも呼ばれていた。なお2004年7月のHCW遠征時に、憧れのダイヤモンド・ダラス・ペイジとのタッグが実現した。 週刊プロレスの別冊であったケンファー第1号の小島聡特集で「恥ずかしいのでコジコジカッターの呼び名は使わないでください」と発言したが、新技名について言及が無かったため、もうひとつの呼び名であるコジマカッターがそのまま正式名称として残った。 コジMAXホールド 変形の羽折固め。うつぶせの相手に対し頭部側から馬乗りになり、右足で相手の左腕を羽折り上にロック。両腕で相手の右腕を掴み絞り上げる。 川田殺し 川田利明との三冠ヘビー級選手権対策として編み出した、変形のV1アームロック。長座になった相手の背後から、片腕を足で挟み込み、もう片方の腕を捻りあげて後方へ倒れこむ。師匠の浜口のもとに訪れた際「小島はあまりサブミッションを使わないから、一味加わえると良い」とアドバイスされたのが開発の転機となった。 コジMAXドライバー ファルコンアローのように担ぎあげて前に落とす。TAKAみちのくのみちのくドライバーIIとほぼ同型である。 ロッキン・バウ 相手の両腕を取り、その片腕を相手の首に巻きつけて、そのままネックブリーカー・ドロップのように落とす(新日本にも参戦していた、現WWEのウィリアム・リーガルのリーガルカッターと同じ)。 ライディーンバスター 旋回式スパイン・バスター ストレッチボム 相手の片腕を相手の股下を通して、その手首を片手でクラッチした変形のコブラツイストの体勢から、そのまま頭上付近まで持ち上げ、そこから相手の体を反転させると同時に開脚ジャンプし、尻餅状態で着地すると同時に相手を背中から落とす。「小島スペシャル」とも。 ラウンディングボディプレス 小島が若手時代に一年間程得意技として使っていた。元からムーンサルトはできないが海外遠征中に仲間に言われインパクトを残すために凱旋帰国試合で使用、その後何度も使用していたが相手に当たらず自爆したため封印した。 垂直落下式ブレーンバスター 小島はその場に脳天から落とすのではなく、後方に自らスライドするようにして落とす。獣神サンダー・ライガーの放つそれとほぼ同型である。 レッグ&ネックロック 左腕を相手の首の後ろに回して、右腕は相手の右脚を折りたたみクラッチを組む。佐々木健介が考案し、小島に授けた。新日本プロレスのヤングライオン杯で使用し決勝で中西学からギブアップを奪ったのはじめ、リーグ戦の大半をこの技で勝利し優勝を遂げた。しかし、それ以後、ほとんど使用されていない。 アンクルホールド VOODOO-MURDERSに加入してから使用。膝に爆弾を抱えている武藤敬司相手に主に使用している。 マシンガンチョップ 相手をコーナーに押し込み、相手の顔を見ずに、手のひらだけで逆水平チョップを速射砲で打ち続ける技。打ち疲れて遅くなったと思ったら、再び早くなり打ち続けている。この後に、いっちゃうぞエルボーを放つパターンが多い。 入場曲 [編集] 「STYLUS」(鈴木修)…三冠王座陥落後から使用。VOODOO-MURDERSに加入した時期は、「VooDoo -STYLUS-」を使用した。 「RUSH!!」(作曲:安部潤 演奏:N.J.P. UNIT) 「RIDE OVER 〜煽風〜」(作曲:戸谷勉 演奏:Blue Stealer) 「CRASH DYNAMITE」(作曲:大竹浩行 演奏:炎達) エピソード [編集] 2002年7月に入籍したことを翌年に会見で発表。2006年10月に長女をもうけた。 ヨーロッパ武者修行中のリングネームは、ジョー・ジョー・リー。 アレルギー性鼻炎に悩まされているため、2000年頃からはノーズクリップ(鼻孔拡張テープ)がトレードマークになっている。 2003年にはZERO-ONEの「火祭り」で優勝、賞金と火祭り刀を手に入れるが火祭り刀が抜けなかったので返還、オレンジ色の火祭り刀を作ってもらい入場時に持つようになっていた。 ヒールとしてnWoに在籍していたにもかかわらず、新日本のマークのついたシャツを着てインタビューを受けていたこともある。 小島の兄 (RYO) はハードコアパンクバンド「鉄アレイ」のボーカルで、インディーズバンド界の重鎮である。 ファンサービスの良さに関してはプロレス界No.1との呼び声も高い。 似顔絵が得意。桂三枝の物真似も得意。 天山とは同学年ではあるが入門が遅いためか、公では天山の“コジ”に対して“天山さん”と、さん付けで呼ぶ場面がみられる。 武藤に誘われ、リック・フレアー、トリプルH、ステファニー・マクマホンと食事をしたことがある。しかし、緊張のあまりほとんど会話はできなかったと本人は語っている(普通に談笑している武藤をみて、改めて偉大さを知ったとも話していた)。 2006年3月から放送された、TBS愛の劇場『すてきにコモン!』で小学校の先生役で出演するほど、ルックスが良く、演技力にも評判があった。その後、2007年9月から放送された『家に五女あり』にも医師役でゲスト出演している。 PR |
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