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棚橋 弘至(たなはし ひろし、男性、1976年11月13日 - )は、日本のプロレスラー。新日本プロレス所属。岐阜県大垣市出身。現在マセキ芸能社と業務提携。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 キング・オブ・ザ・ヒルズ時代 1.2 刺傷事件からの復帰後 1.3 新闘魂三銃士時代 1.4 新闘魂三銃士以降 1.5 ナルシストキャラ誕生 1.6 悲願のG1初制覇 1.7 低迷 1.8 進化が止まらない王者 1.9 TAJIRIとの抗争 1.10 矢野との因縁 1.11 TAJIRI・KUSHIDAとの共闘 1.12 小島聡の猛攻 2 その他 3 得意技 3.1 フィニッシュ・ホールド 3.2 打撃技 3.3 投げ技 3.4 関節技 3.5 飛び技 3.6 丸め込み技 4 入場テーマ曲 5 決め台詞 6 タイトル歴 6.1 新日本プロレス 6.2 全日本プロレス 6.3 プロレスリング・ノア 6.4 CMLL 6.5 プロレス大賞 7 関連項目 8 外部リンク 来歴 [編集] 岐阜県立大垣西高等学校ではサッカーを経験。1995年に卒業後、一般入試で立命館大学法学部に入学。弁護士の角田龍平とは同級生であった。大学時代は学生プロレスサークルであるプロレス同好会に在籍。現場監督の長州力が学生プロレス嫌いを公言していることから、棚橋自身は従来学生プロレス出身であることを認めてこなかったが、2006年4月に東京スポーツ紙上でレイザーラモンHGと対談した際、自らが学生プロレス出身であることを認めた(サークルの先輩にレイザーラモンRG)。ただし同対談においては、学生時代のリングネームとされている「ターナー・ザ・インサート」と棚橋が同一人物かどうかについては明言を避けている。 三度目の入門テストでようやく合格し、1999年、大学卒業後すぐに新日本プロレスに入門。同年10月10日、真壁伸也(現:真壁刀義)戦でデビュー。 キング・オブ・ザ・ヒルズ時代 [編集] 2001年5月18日、怪我から復帰した同期入門の鈴木健三(後に鈴木健想に改名)と、タッグチーム「キング・オブ・ザ・ヒルズ(略称:KOTH)」を結成。棚橋(タナハシ)と健三(ケンゾウ)で「タナケン」コンビと呼ばれ、ヘビー級のタッグ戦線を盛り上げる(King Of The Hillsは日本語に意訳すれば「お山の大将」である)。 2002年3月14日、鈴木が病気によって再び欠場に入ると、佐々木健介とタッグを結成。5月2日には、東京ドームでスタイナー・ブラザーズ(リック・スタイナー&スコット・スタイナー)と対戦。 同年6月20日、自らに健介、復帰した鈴木とブルー・ウルフを加えた4人で新チーム「SWING-LOWS」を結成。健介がリーダーではあるが、KOTHの発展形と主張し、本隊と一線を画して新日本のトップ獲りを目指す。 しかし10月に健介に新日本退団問題が発生したため、11月3日、SWING-LOWSを解散して新生KOTHを結成。棚橋&鈴木のKOTHにウルフを迎える形での3人組ユニットとなった。このトリオで大会「トライアスロン・サバイバー」にエントリーしたが大会前の公開練習で鈴木が高山善廣とタッグを組みたい意向を示し年内での解散を宣言した。 大会公式戦消化中の11月28日、別れ話のもつれから交際相手であった当時テレビ番組ADの女性にナイフで背中を刺されて重傷を負う。緊急治療を受けて一命を取り留めたものの傷は深く、人体の総血液量(体重のおよそ 1/13(約8%))の約3分の1にあたる1.7リットルの血液を失い、一時は危篤状態に陥ったほどであった。なお、刺された時、棚橋はなんと刺さったナイフもそのままに、スクーターを走らせて病院へ向かったという。 刺傷事件からの復帰後 [編集] 2003年、4月23日にU-30王座(後にU-30無差別級王座に改称)を、6月13日に吉江豊とIWGPタッグ王座を、11月30日に永田裕志とGHCタッグ王座を続けざまに獲得し、12月14日にIWGPタッグ王座から転落するまでの約半月間、3冠王となった。 新闘魂三銃士時代 [編集] U-30無差別級王座長期防衛のさなかの2004年初め頃から、棚橋・中邑真輔・柴田勝頼の3人が「新・闘魂三銃士」と呼ばれるようになる。しかし、当の本人たちはこのことをあまりよく思っていなかった。しかしG1 CLIMAXでは、その全員が決勝トーナメント(ベスト6)へ進出する中、3人中最高の準優勝という成績を残す。 同年12月11日、中邑とのコンビで再びIWGPタッグ王座を獲得。再改称されたIWGP・U-30無差別級王座と合わせて、IWGPの2冠王として君臨する。 2005年1月4日、中邑とのU-30タイトル戦に敗戦。2年近く保持していた王座から転落する。しかし、後に中邑がU-30無差別級王座を封印するもののフロントの意向により撤回、返上と改められ、同年6月に行われた王座決定戦を制して同王座に返り咲く。この後、柴田の退団により新三銃士は消滅した。 新闘魂三銃士以降 [編集] 2005年4月、新設されたトーナメント戦「春のG1」こと第1回NEW JAPAN CUPで優勝。さらに6月に行なわれた「U-30無差別級王座決定リーグ戦」を全勝優勝で突破し第3代U-30無差別級王者となった。7月18日、NOAH東京ドーム大会に参戦。力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも、ドラゴンロケットの三連続失敗などが原因で敗北した。「このままでは新日本に帰れない」と試合後述べるものの、継続してノアには参戦せず、新日本のシリーズにそのまま戻った。 2006年1月、アメリカのプロレス団体TNAに参戦。ちなみにTNA参戦時は“ハイ・フライング・スター”を称され観客に脚光を浴びた。2月19日、第3世代最後の砦とされた永田裕志からドラゴン・スープレックス・ホールドで初のピンフォール勝ち。 ナルシストキャラ誕生 [編集] 5月13日に行われた第1回WRESTLE LANDでは、黒のショートタイツで天性のナルシストぶりとチャラ男ぶりを発揮。いつしかリングの中心で決め台詞である「愛してま〜す」と叫ぶようになり、特異なキャラを確立し今に至っている。 7月17日、札幌でIWGPヘビー級王者ブロック・レスナーとのタイトルマッチを行う予定だったが、契約上のトラブルにより来日不可能となった。それに伴いレスナーから剥奪された王座を競うトーナメントでジャイアント・バーナードに勝利し、優勝。第45代IWGPヘビー級王者となり悲願の初戴冠。8月のG1 CLIMAXでは王者ということもあったので優勝候補とされていたが小島聡、ジャイアント・バーナードに敗れ屈辱の予選落ち。その後10月9日、G1を制覇した天山広吉と対戦。最後は必殺のハイフライフローで3カウントを奪い王者の意地を見せつけた。 同年に行われたG1 TAG LEAGUEでは金本浩二と王者タッグを組み出場初めの2戦で1敗1分という成績で苦しい状況だったが残り2戦を見事勝利で飾る。そして最終日の2位決定戦も勝利を果たし2位で決勝トーナメントへ進出。その後Bブロック1位通過の永田裕志、飯塚高史組にも勝利を収めるが、決勝戦で蝶野正洋、中邑真輔組に破れ準優勝で終わる。12月10日、2度目の王座防衛戦でライバル中邑真輔と激突。激しい攻防戦の中、最後は棚橋がドラゴン・スープレックス・ホールドで勝利し、2度目の防衛成功。 2007年1月4日、新日本プロレス、全日本プロレスの両団体の誕生35周年を記念した共同開催のレッスルキングダム IN 東京ドームではダブルメインイベントに出場し、王道最後の継承者太陽ケアとIWGP王座を賭け対戦。闘魂対王道の一騎打ちの最後は棚橋がハイ・フライ・フローで勝利し、3度目の防衛成功。 2月18日、金本浩二がIWGPに初挑戦。ウェイトアップを果たした棚橋がドラゴン・スープレックス・ホールドで勝利し、4度目の防衛成功したが4月13日のタイトルマッチでNEW JAPAN CUPを制した永田裕志にバックドロップホールドでピンフォールを奪われ5度目の防衛に失敗し王座陥落。試合翌日長州から休養を勧告されたと明かした。(右膝内足靭帯損傷のため。その後欠場) 悲願のG1初制覇 [編集] 8月3日、初のオフィシャル本『オレはプロレスラー』(カンゼン刊)が発売。日々の生活をセキララに綴っている。同月行われたG1 CLIMAXにも参戦。2勝1敗2分という成績で2位通過。Aブロック1位で通過した真壁刀義をも退け決勝へ進出。そして王座を奪われた永田裕志を破り悲願の初制覇。約2か月後の10月8日、G1覇者としてIWGP王者永田裕志と激突。30分を超える激闘を繰り広げ見事IWGPヘビー級王座を奪還。さらに後日の記者会見で結婚していたことを告白。 10月に2年連続で金本浩二と組みG1 TAG LEAGUEへ出場。今度こそ優勝というファンの期待もあったがまたもや準優勝で終わる。11月11日、8月末にメキシコ遠征から帰国した後藤洋央紀が初挑戦。文字通りの壮絶な死闘を制し、最後は奥の手であるテキサスクローバーホールドで薄氷の勝利を収め初防衛に成功。新時代の幕開けを告げる一世一代の大勝負となった。 2008年1月4日東京ドーム大会で行われたIWGPヘビー級選手権試合で宿命のライバル中邑真輔と6回目の一騎打ち。両者の容赦ないせめぎ合いを繰り広げたが最後はランドスライドで敗れ、2度目の防衛に失敗。2月17日、2年前のTNA参戦時にも対戦し敗れたAJスタイルズを相手にハイフライフローでリベンジを果たした。 3月1日、全日本プロレスに参戦し元付き人だった武藤敬司とタッグを結成。川田利明、太陽ケア組に勝利。メインイベントの三冠ヘビー級選手権試合終了後チャンピオン・カーニバルに参戦を表明し出場が決定。新日本ではジャイアント・バーナードを下し、3年振り2度目のNEW JAPAN CUP優勝。後日30日にNEW JAPAN CUP優勝者に与えられる権利で、IWGPヘビー級王者中邑真輔へ挑戦するが、王座奪回に失敗。 低迷 [編集] 4月に開催された全日本プロレス春の祭典、チャンピオン・カーニバルに出場。初戦を勝利で収め順調なスタートかと思った矢先に8日の後楽園大会の川田利明戦で、ハイフライフローを放った際、左ひざをマットで強打。この衝撃が原因で「走れない。階段を上り下りできない」という激痛に悩まされ始め、その後は痛み止めの注射を打ちながら出場を続けていたという。痛みに耐えながら優勝決定戦までコマを進めるも、諏訪魔にラストライドからピンフォールを奪われ優勝を逃す。さらに怪我が悪化し、「左膝前十字靭帯断裂」および「外側半月板断裂」という大怪我を負い欠場。 8月のG1 CLIMAXで復帰を果たすも、昨年の優勝者とは思えない散々たる結果に終わり予選落ち。その後のシリーズでもさしたる活躍も無く、話題から遠のいた存在となり、さらにIWGPヘビー級王座を全日本プロレスの武藤敬司に奪われた中でも、次期挑戦者としてリストアップすらされなかった。そんなスランプの中、この状況を打開すべく10月26日に無期限TNA遠征のため、アメリカへ飛び立つ。公式サイトにて“【不定期連載】ハイフライング・スター、絶賛アメリカ遠征中!”というタイトルで遠征先での状況を掲載していった。 進化が止まらない王者 [編集] 2009年1月4日、東京ドーム大会で3年連続メインイベントに抜擢。IWGPヘビー級選手権試合で武藤敬司を下し王座奪還。第50代IWGPヘビー級王者となり、武藤越えを果たした。2月15日には永遠のライバル中邑真輔と8度目の対戦。真のエース決定戦と称された戦いを制し初防衛に成功。さらに4月5日に世界最高峰の挑戦者カート・アングルを退け2度目の防衛。この試合後に「俺の進化が止まんねぇ〜」と自画自賛するほど勢いづいていた。 5月3日にNEW JAPAN CUP覇者の後藤洋央紀と対戦し3度目の防衛に成功したが、3日後に行われたタイトルマッチで中西学に敗れ王座を失うも6月20日、大阪府立体育会館で中西学とリターンマッチ。30分以上の戦いを制し第52代IWGPヘビー級王者へと返り咲きになった。 TAJIRIとの抗争 [編集] 7月20日、王者として北海道へ3年ぶり凱旋を果たし初防衛戦を行う。相手は“ノアの壊し屋”と称された杉浦貴。ハードヒットなファイトを展開し追い詰められた場面がいくつか見られるも最後は投げっ放しドラゴン・スープレックスからのハイフライフローという必殺フルコースで防衛成功。ところが試合後、この日試合の観戦に来ていたTAJIRIが突如乱入。棚橋にグリーンミストを吹きかけると足早に退散。両者に遺恨が芽生えた。その後8月13日のG1 CLIMAX 2009公式戦でTAJIRIと対戦。ラフ殺法とトリッキーな動きに惑わされるも何とか保った棚橋だったが最後はグリーンミストからのバズソーキックで轟沈した。 8月16日、G1 CLIMAX 2009準決勝戦にて、ライバル中邑真輔と対戦。しかし試合中、中邑が放ったハイキックのあたりが悪かったのか試合に敗戦しその試合後病院に直行。後日、眼窩内側壁骨折と診断され全治1か月とIWGPヘビー級王座を返上した。また、返上したベルトはG1優勝者真壁刀義と準優勝者中邑が王者決定戦で激突。これに中邑が勝利し第53代IWGPヘビー級王者となった。 11月8日、欠場に送り出され新王者となった中邑真輔とベルトを賭け対決。いつものナルシストぶりを捨てて挑んだものの、最後はボマイェで敗北を喫した。試合後にTAJIRIに「100年に1人のダメ人間」と吐き捨てられた上にグリーンミストを噴射されたことから両者の因縁が再び勃発。 11月23日に後藤洋央紀と組み、TAJIRI、田中将斗組と対戦。棚橋はTAJIRI、後藤は田中とそれぞれシングルで負けているので両者にとっては絶対に負けられない試合。最後は棚橋がTAJIRIからハイフライフローでピンフォール勝ち。G1参戦以降ピンフォール負けを許さなかったTAJIRIについに勝利をもぎ取る。その後は立て続けにTAJIRIにフォール負けを喫するも12月5日、シングルマッチで再び激突し、実況席にいた山崎一夫や社長の菅林を巻き込む形になるも最後はハイフライフローで勝利を収めた。 矢野との因縁 [編集] 2010年1月4日、プロレスリング・ノアの対抗戦に出陣し、潮崎豪と対戦。20分近くに及ぶ激闘の末、勝利を収めた。1月22日の全試合終了後、矢野通が襲撃したことから、因縁が勃発。2月14日に矢野とのシングルマッチに望みこれに辛勝。試合後、持参していたハサミで矢野の髪を切ろうとするが、田中将斗に阻止され、逆に髪を切られるという屈辱を受けた。 2月28日、グリコ・パワープロダクション・ドリームマッチのメインイベントに出場。武藤敬司、パワプロ仮面と組んで、ボノ・ウォリアー、ピンク・ウォリアー、ポーク・ウォリアーと対戦し勝利。 3月のNEW JAPAN CUPには1回戦でCMLLのストロングマンと激突。その圧倒的なパワーに苦しめられるも、最後は丸め込みで2回戦に進出。ところが、シリーズ中に左膝を負傷。後日の検査の結果、変形性膝関節症および外側半月板断裂の疑いありと診断されたが、そのまま続行で参戦。だが、やはりトーナメントでは本領発揮にはいかず、内藤哲也に敗北を喫した。 5月3日にさらに悪化した遺恨を清算すべく矢野通と再戦。この試合に敗れ去った後、矢野がバリカンを持ち出し襲撃されるも間一髪で阻止。試合後のコメントで「髪を賭けてもう一回だ」と強く再戦を申し出た。 5月5日よりCMLLからの熱烈なオファーに応じる形で遠征に出発。5月7日にタイチ、OKUMURAと組んで、ラ・マスカラ、イホ・デル・ファンタズマ、エクトール・ガルサ組とCMLL世界トリオ王座を賭けて対決。これに勝利し同王座に載冠を果たした。また、遠征先では普段のベビーフェイスを封印し、ヒールキャラを演じている。 TAJIRI・KUSHIDAとの共闘 [編集] 6月19日、ルーザー・ボールド・ルールで完全決着を果たすべく矢野と3度目の対戦。最後は回転十字架固めで矢野からピンフォールを奪い取り勝利を飾った。試合後、矢野は潔くマットに跪くも急所パンチを喰らいまたもやピンチに陥り、後から入ってきた飯塚高史に羽交い絞めにされる。ここでKUSHIDAが救援に駆けつけるも逆に返り討ちに合いとうとう成す術が無くなった時、かつて敵対していたTAJIRIが救出し2人を蹴散らす。TAJIRIが矢野を羽交い絞めにする中、ようやく矢野の髪の毛を刈ることに成功。後にTAJIRIと握手を交わしKUSHIDAを伴いながら退場していった。また、同年のG1タッグリーグにTAJIRIとペアを組んで参戦した。 小島聡の猛攻 [編集] 2010年8月に開催されたG1 CLIMAX XXに出場し、Aブロック1位になって決勝戦進出、フリーとして復帰したBブロック1位の小島聡と対戦。グラウンドドラゴンスクリューを駆使して小島のラリアットを封じようとするも、小島必殺のウエスタンラリアットで沈んでしまい、準優勝で終わった。 その後、小島は当時IWGP王者だった真壁刀義からベルトを奪取。翌、内藤哲也と対戦した小島の元に、小島から対戦相手として指名された中邑真輔、新日プロレス社長が指名した後藤洋央紀、リマッチしにやってきた真壁と共にIWGP戦の申し出る。しかし、小島の中邑との対戦への頑なな執着心と、指名された中邑が承諾しなかった為、後藤と共に振り回される羽目になる。そんな中、小島は同期の金本浩二と激しい同窓会を展開し、CHAOSの石井智宏、高橋裕二郎、飯塚高史、矢野通の包囲網までも突破する。12月に小島がようやく承諾した中邑からベルトを防衛した直後に乱入、小島に挑戦者宣言をしたことで翌年2011年1月のレッスルキングダムでのIWGP選手権試合に出場することが決まった。 その他 [編集] 大の中日ドラゴンズファンとして知られている。 鍛えられた肉体を誇り、精悍な顔つきから女性ファンが多い。しかしながら試合内容で納得させられない時期が続き会場でファンにブーイングが少なからず飛んでいた。がそれを逆手に取り、ナルシスト的で嫌味な部分を更に露骨に出す等としてベビーの立場にいながら新しいヒールキャラとして振舞っている。最近ではそのキャラが認知され始めてきており、女性だけでなく男性ファンにも認められるほどの実力が備わってきた。また、「愛してま〜す!!」(後に記述あり)の決め台詞を共に叫ぶファンも見受けられるようになってきたほどである。 上記のヒール像が確立された頃から、相手の攻撃を徹底的に受ける試合スタイルへと変化し評価も高まった。2007年11月11日の後藤洋央紀戦はその年のベストバウト候補にあげられるほどの試合内容であった。 2008年以降は試合内容が安定するようになり、名実ともに新日本のエースと言うにふさわしい存在となった。本人も「自分がエースだ」と発言している。 鈴木健三が不動のタッグパートナーだったが、2003年鈴木がWJプロレスへ転出すると、様々な選手とコンビを組むようになる。4月28日と6月13日に蝶野正洋&天山広吉のIWGPタッグ王座に連続挑戦した同世代の吉江とは強い絆で結ばれているのかと思いきや、プロレスリング・ノアへの参戦時には吉江ではなく先輩の永田と組んで出陣。そこでも見事GHCタッグ王座獲得を果たし、新日本では吉江と、ノアでは永田とタッグ王者に就いているという状態になってしまう。事件後の療養から復帰した後だっただけに一部から「ここでも二股か」と揶揄された。両王座からの転落後の2004年12月11日には、中邑と組んで王座決定戦に勝利しIWGPタッグ王座に返り咲く。今後は新三銃士の同志・中邑とのチームに専念するのかと思われたが、2005年1月16日にまたもやIWGPタッグ王者のまま、吉江とのコンビを復活させて全日本プロレスへ出向き世界タッグ王座決定戦を戦った。 2005年から「週刊プロレス」で、「ドラゴンノート」を隔週連載している。内容は「タナ番」と呼ばれる番記者とのトークで、棚橋自身が新日本プロレス入門以前からの週刊プロレスの愛読者であるため、フリーライターのマコ・スガワールの口癖である「ひどいよ!!」を決め台詞としている。 マクドナルドのCMに中邑真輔と共に出演していた。その後、マスコミに対してのコメントで「新日本プロレスのマッチメイクはファーストフード化している」とファーストフードを否定的比喩として用いた。 覆面レスラー魔界二号として参戦していた九州プロレスの筑前りょう太と髪の毛とマスクをかけて対決し、勝利した。 井上亘・柴田勝頼・鈴木健想とは同期だが普段は彼らのことを「さん」付けで呼んでいる(井上・健想は年上で、柴田は年下)。 観客動員数が惨憺たる興行後、「なんでプロレスの面白さが伝わらないんだろう。逆に言えば、お客さんは会場まで何を見に来てるんだろうって」、「久しぶりですね、こんなお葬式みたいな試合したの」といった発言が報道がされた。棚橋の目標のひとりである武藤敬司であれば観客数の少ない興行であっても、印象を残す試合が出来たはずであり、いかにすれば棚橋も盛り上げられるのだろうかと自問するコメントも出している。 上記の様に、武藤や藤波の名を多く出す。IWGP王座にめぐっては橋本真也の名前も出している。 かつては白を基調としたロングタイツを着用していた。また、単発興行「レッスルランド」では、黒のショートタイツを着用する。興行中で流されるVTRは棚橋の股間を強調し、インタビュアーもそれに準じた激励をしていた。現在では黒のロングタイツで試合を行うことが多い。 『愛してまーす!』というマイクパフォーマンスを行う。本来は、新日本プロレスが離脱者の続出やベルト持ち逃げ問題などで長く低迷していた時期に、会社の将来を担う立場から「俺は新日本プロレスを愛しています」という意味での発言だった。 2007年10月9日、新日本プロレスの事務所で開かれた記者会見において、2003年に結婚しており、3歳の長女と2歳の長男がいることを公表した。2002年11月の刺傷事件で公表するタイミングを逃していたが、ケジメをとって公表した。2008年のTNA遠征中に子供へのプレゼントを探す様子から家族想いな面も見られる。 2007年11月9日に放送されたテレビ朝日系のドラマ『モップガール』に、バッティングセンターで北川景子が演じる主人公の桃子と居合わすシーンに本人役で出演した。 2009年5月20日、棚橋自身初のJリーグ観戦。笠松運動公園陸上競技場にて、水戸ホーリーホックのユニフォームを着て、水戸ホーリーホックVSコンサドーレ札幌を観戦した。 得意技 [編集] 藤波辰爾や武藤敬司の影響を受けた技が多い、これら以外にもクイック技を好んで使う。 フィニッシュ・ホールド [編集] ハイフライフロー いわゆるフロッグスプラッシュ。2006年のG1から使用。現在のフィニッシュムーブ。このワザに移行する際はスリング・ブレイドで倒してから移行する場合が多い。最近ではうつ伏せになった相手の背中に放つバージョンや、あお向けの相手の膝めがけて放つバージョン、(この後にテキサスクローバーホールドでギブアップを狙う)、IWGPの防衛戦で立っている状態のカート・アングルにも使用した。ちなみに過去に、TNAでこの技を使ったときには、「エディ・ゲレロ以来の名手だ。」と、関係者から高い評価を得たこともある。 ドラゴン・スープレックス・ホールド ハイフライフローと並ぶフィニッシュムーブ。ナルシストキャラ確立後は、ハイフライフローを習得したこともあり使用頻度は減ったが、いまだに説得力のある必殺技として大事な場面で用いられている。 打撃技 [編集] 太陽ブロー 左のボディブロー。名城信男との合同トレーニングを経て使用。主に相手の打撃攻撃に合わせてカウンターで放つ。 ドラゴン式張り手 藤波式のモーションが小さい張り手。 フライング・フォーアーム 助走をつけて、体を横に流しつつジャンピングエルボーを繰り出す。 エルボー・スマッシュ 鍵型に曲げた腕の先端部もしくは少し前側の腕の部分を、斜め下方から上方へ向けてかち上げるように振り上げ、相手に叩きつけるエルボー。 ドロップキック 元々、若手のころから正面飛び式のを使っていたが、ここ最近はそれ以外に、足殺しの一貫として、低空式も使用している。 青天井エルボー・ドロップ 尊敬する武藤敬司のフラッシングエルボーに影響を受けた技。その場で高くジャンプし、両足をジタバタさせながら放つ。現在の武藤のものよりも、若手時代のフォームに近い。 投げ技 [編集] スリング・ブレイド 以前のフィニッシュムーブ。旋回式のフライング・ネックブリーカー・ドロップ。相手の前方から飛びつき、スリーパーホールドの様に相手の頭を抱えてリングに叩き付ける。完全なオリジナルではなく、棚橋が開発する前からDRAGON GATEの吉野正人が繋ぎ技として使っていた。 フライング・スリング・ブレイド トップロープから相手に飛びついてのスリング・ブレイド。一度リングに足から着地した後に、再度その場で小さく飛び跳ねてから叩きつけることが特徴。2006年6月頃から使用していたが同じ年のG1でいずれもこの技を切り返されて2敗を喫している。それ以来ほとんど使用していない。 ドラゴンスイング ドラゴン・スリーパーの体勢から相手の体を持ち上げ、ジャイアントスイングのような形で振り回した後にバスターやファイナルカットでリングに叩き付ける。 ドラゴンスクリュー 元々若手のころから使用していたが、2009年1月4日の武藤戦以降から、足攻めのために多用するようになった技。棚橋には相手がグラウンド状態で放つグラウンドでのドラゴンスクリューと張り手を見舞ったあとにする新型ドラゴンスクリューが存在する。 グラウンドドラゴンスクリュー 棚橋のオリジナル技。その名の通りグラウンドで行うドラゴンスクリュー。2007年4月13日の永田裕志戦で初公開。他にも相手の足をロープに挟んでからのドラゴンスクリュー、腕へのドラゴンスクリューなどバリエーションは多い。 ジャーマン・スープレックス 若手時代にはよく使っていたが、現在は稀に使用している技である。棚橋の出身地・岐阜県に引っ掛けて「金華山ジャーマン」とも呼ばれていた。 ダルマ式ジャーマン・スープレックス 通常のジャーマン・スープレックスとは異なり、クラッチ時に相手の両腕を取り、後方に投げる。両腕がロックされているため受身が取れなく、頭から突き刺さるしか無い危険な技。棚橋は基本的にフルネルソンの状態から相手が強引に解除した時に即座に両腕をとってから仕掛ける。また、この技はシングルマッチや大一番などで好んで使用している。 オールアウト 相手をブロックバスターの要領で抱えあげたあと上半身を右方向に軽く捻り、上半身を左方向へと振ると同時に股を抱えていた右腕を離す。そのあと抱えた首を支点にして相手の体を振り子のように左方向へと旋回させ、ロック・ボトムの形で相手をマットに叩きつける。 裏投げ 側面から相手の脇下へ頭を潜り込ませるようにして組み付き、片腕で首の付け根あたりを、もう片方の腕で腰を抱え、後方に体を捻りながら投げる技である。元々は柔道の投げ技の一つである。 ハーフハッチスープレックス フロントヘッドロックの体勢で相手を捕らえ、空いた方の腕を相手の脇下を通した状態で、後方に反り投げる。若手時代によく用いられていたが、最近ではほとんど見られない。 変型ファルコンアロー ブレーンバスターではなくキャプチュードの体勢で相手を抱え、ファルコンアロー(もしくはみちのくドライバーII)のように首から背中に掛けて相手を落とす。主にビッグマッチで見られる。ハイフライフローへの繋ぎとして使用している。 関節技 [編集] テキサスクローバーホールド 2007年のIWGPヘビー級選手権試合後藤洋央紀戦でフィニッシュ・ホールドとして使用、その後AJスタイルズ戦でも使用し、頻度が増えている関節技。決して派手ではない部類の技ながら、説得力のある角度でフィニッシュムーブのひとつに昇華しつつある。 ドラゴン・スリーパー この体勢からの移行する技や、ドラゴン・スリーパー自体の変形verも色々開発している。 足4の字固め この技も武藤敬司とのIWGP戦以降、足殺しの一貫として、時折使用している。 飛び技 [編集] ドラゴン・ロケット リング上からリング場外にいる相手に向かって助走し、頭部や肩口などの正面から突っ込んで体当たりする技。藤波がこの技を使用する際にドラゴン殺法の一環として「ドラゴン・ロケット」と呼ばれていた。棚橋も藤波への尊敬からその名称で使用している。 サマーソルトドロップ(サンセットフリップ) 前方回転し、背中から相手に体当たりする技。ダウンした相手にその場で、コーナーポスト上から、エプロンから助走をつけ場外へと、使用範囲が広い。その場のものは錐揉み式のフォームで、ムーンサルトのような形になることも多い。コーナーポスト上では両腕を広げるアピールをしてから放つ。 丸め込み技 [編集] 電光石火 ランニングしての首固め。現在はなかなか使用することがないが、時折、相手の打撃攻撃に合わせて、仕掛けることがある。 フォールインラブ いわゆる前方回転エビ固め。主に大型選手へのフィニッシュとなりやすい技である。現に、ここ最近のジャイアント・バーナードへのフィニッシュ技になっているのはすべてこれである。 スリングブレイドル スリング・ブレイドからすばやく回転十字固めを決める技。 入場テーマ曲 [編集] HIGH ENERGY DO IT MYSELF / SUPER STUPID(旧入場曲、現在はWRESTLE LANDで使用) STRANGE(旧入場曲) 決め台詞 [編集] 「○○(新日本プロレスファン、開催地名など)の皆さん、愛してま〜す」 自分がピンフォール勝ちやギブアップなどを奪い勝利した際に言う台詞。当初はメインイベントやタイトルマッチのみ発言したが徐々に発言の機会を増やしていった。 近年ではマイク無しでポーズのみ決めるサイレントバージョンが存在する。 「俺の進化が止まんねぇ〜」 「100年に1人の逸材、棚橋弘至です!」 自己紹介の際。 「まぁ俺のカッコ良さは反則だけど」 反則攻撃を喰らった後、文句を言ってからの捨て台詞。 また、セリフではないが入場時にエアギターをすることがある。 タイトル歴 [編集] 新日本プロレス [編集] IWGP U-30無差別級王座:2回(初代、3代) IWGPタッグ王座:2回(第44代、第47代) 第44代パートナーは吉江豊、第47代パートナー中邑真輔。 IWGPヘビー級王座:4回(第45代、47代、50代、52代) G1 CLIMAX優勝(2007年) NEW JAPAN CUP優勝:2回(2005年、2008年) 全日本プロレス [編集] チャンピオン・カーニバル準優勝(2008年) プロレスリング・ノア [編集] GHCタッグ王座(第7代) パートナーは永田裕志。 CMLL [編集] CMLL世界トリオ王座 パートナーはタイチ・OKUMURA。 プロレス大賞 [編集] 2007年度プロレス大賞 殊勲賞 2009年度プロレス大賞 最優秀選手賞 PR |
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