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【2025/05/01 17:53 】 |
飯塚高史
飯塚 高史(いいづか たかし、男性、1966年8月2日 - )は、日本のプロレスラー。本名は飯塚 孝之(いいづか たかゆき)。北海道室蘭市出身。新日本プロレス所属。
目次 [非表示]
1 来歴
2 略歴
3 得意技
4 入場テーマ曲
5 タイトル歴
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
来歴 [編集]

若手時代の1989年、馳浩と共にロシアでコマンドサンボ修行を行っており、グラウンドレスリングの技術力が非常に高く、道場でコーチを務めていた時期もあった。またその技術を買われて、パンクラスのリングでは鈴木みのると「キャッチレスリング」(打撃無しルール)で対戦している。
スリーパーホールドを得意としており、過去に何度もこの技で勝利をあげている。
本人曰く「裏投げとフィッシャーマンズ・スープレックスを併せた」というブリザードを得意としており、技の名前は出身地が北海道であることから、リングアナウンサーの田中秀和が命名したものである。
海外遠征からの帰国時、闘魂三銃士、馳浩、佐々木健介の5人にシングル戦を要求するマイクパフォーマンスをリング上で行い、エル・サムライおよび野上彰との3人で「新世代闘魂トリオ」という形で売り出されたが、希望は即座に通らずに売り出し失敗。併せて本人の性格の地味さもあって、トップグループに割って入ることができなかった。なお健介は後にプロレス雑誌の飯塚との対談で、このシングル戦要求に答えなかった理由を、「同い年の同年デビューなのに、短期サンボ修行、長州力と組んでのIWGPタッグ王座戴冠、ドラゴンボンバーズ、お膳立ての整った海外武者修行という、エリートコースに乗った流れが気に食わなかったから」と述べていた。
この後も、野上彰との「J・J・JACKS」、山崎一夫・永田裕志・木戸修との「山崎隊」など、ユニットの形でチャンスを与えられるが、生かすことは出来ず、「隠れた実力派」と称される中堅選手の位置に甘んじていた。
1999年1月4日、小川直也対橋本真也戦における場外乱闘で、小川のセコンドについていた村上和成に対し、一時昏睡状態に陥るほどのダメージを負わせた張本人とされる(これが原因で、村上は一時執拗に飯塚の首を狙っていた)。
2000年1月4日、橋本とのタッグで小川・村上組と対決。橋本を馬乗りパンチで攻める小川をドロップキックで駆逐するなど大活躍し、最後はスリーパーホールドで村上をKOした。この一戦がきっかけで一躍大ブレイクし、決め技となったスリーパーは前述のように彼の代名詞となった。4月7日にはシングルでも村上からスリーパーで勝利すると、7月20日に健介の持つIWGPヘビー級王座に挑戦。試合には敗れるものの、その後のG1 CLIMAXで永田裕志と大会中ベストバウトと呼ばれる試合を展開。G1タッグリーグ戦では永田と組んで初優勝と、飯塚にとって2000年は非常に実りの多い年であった。
しかし2001年、長井満也との試合で首を負傷し、長期欠場を余儀なくされる。
その後、トップ戦線との関わりは無く光が当たる事はなかったが2008年、復帰したがG・B・H勢に袋だたきに遭った天山広吉を助け、タッグ共闘を持ちかけた。最初は冷たくあしらわれていたが、G・B・Hのイス攻撃から身を挺して天山を守る等の捨て身の救助を行い、気持ちが通じて“友情タッグ”が誕生した。4月27日のIWGPタッグ挑戦の際突如天山を裏切ってG・B・Hとグルになって袋叩きし、長いキャリアで初のヒール転向宣言。これに伴い、頭を坊主にし眉毛も落とし、無口で鋭い眼光の別人の風貌に変わった。
当初は全く喋らないキャラで逆にその不気味さを際立たせていたが、徐々に喋るようになった。のちのインタビューでは「善良だったころの飯塚高史の魂は等々力のほこらに封印した」[1]と語った。
2008年10月13日に天山、2009年4月5日に永田とチェーン・デスマッチで対戦し勝利したが、2009年5月3日に永田とドッグカラー・チェーンデスマッチで、7月20日に天山とチェーン・デスマッチで再戦し敗北。同年のG1 CLIMAXに9年振りの出場を果たすも永田裕志、同ユニットの中邑真輔以外は全てアイアンフィンガー・フロム・ヘルをはめての地獄突きによる反則負けだった。
9月シリーズでは真壁刀義にピンフォール勝ちを3度も取られるという屈辱を味わい、9月27日のメインイベント終了後に真壁を襲撃し両者に因縁が芽生える。さらに11月1日の全試合終了後、菅林直樹社長の接待という事で車に乗り込んだ真壁に対して、持参したバットでテロを起こした。
11月8日にチェーン・デスマッチとして試合が組まれK.O.負けとなったが、その後も襲撃を繰り返し12月5日、再度チェーン・デスマッチで激突するが今度はレフェリーストップを食らいデスマッチ4連敗を喫した。
略歴 [編集]

1986年11月2日、野上彰(現:AKIRA)戦でデビュー。
1993年9月、野上彰とタッグチーム「J・J・JACKS」を結成する。1996年3月に解散。
2005年から2007年まで選手会長を務めた。
得意技 [編集]

グラウンドの切れ味は抜群。また、裏投げやブリザードと言ったサンボ仕込みの投げ技も得意。かつてはキレの良いスープレックスの使い手でもあった。また、新日本プロレスの道場長だったこともあり、ドロップキックなどの基本的な技のフォームが美しい。ヒールターン以後は急所攻撃などの各種反則や場外乱闘、殴る、蹴るなど技らしい技はほとんど使用せずに試合を展開している。
スリーパーホールド
その攻撃力から「魔性のスリーパー」と呼ばれる。カウンター式でも使われる他、総合格闘技の試合のように足を使っての胴締めと併用して使われたりする。
ブリザード
サンボ修行で会得した大技。変形の裏投げで、脇を通して背中に回す腕が相手の足を固めている。秋山準のエクスプロイダーと比較されることが多いが、急角度に落としていく秋山のそれとは違い、飯塚のブリザードは相手を背中から落とし、そのままホールドに持ち込む。最近は投げっ放しを多用する。
裏投げ
相手の正面から組み付き、右腕を相手の首、左手を相手の右脇に差し込んでクラッチし、後ろに反り投げるスープレックス。首のフックを最後まで外さず、ネックブリーカー風にたたきつける。馳浩曰く「横にひっくり返しているだけ」。
飛びつき式腕ひしぎ十字固め
相手の腕または首を掴んだまま飛びついて足を相手の首に絡め、自身は後方へ回転しつつ相手を巻き込んで倒し、腕ひしぎ十字固めへと移行する技。ラリアットに対するカウンターとしても使われる。
ビクトル式膝十字固め
相手の横から首と腕を取り、足を河津掛けのようにからめ、そのまま相手を巻き込みつつ前方回転して膝十字固めに移行する。
アンクルホールド
うつぶせの相手のつま先を掴み、そのまま両腕で足首を抱え込むようにして反らしながら締め上げる関節技。
飯塚スペシャル∞
どんな技かは謎。出せば勝てるらしいが、使う気は無いらしい。
地獄突き(アイアンフィンガー・フロム・ヘル装着)
アイアンフィンガー・フロム・ヘル(鉄製のグローブ)をはめての地獄突き(G・B・H加入時から使用)。凶器攻撃(反則)の一種なのでレフェリーのブラインドを突いて行われる。なお、アイアンフィンガーを作成したのは平田(マシン)。当初は飯塚の腕を機械に改造したというギミックだったが、いつのまにか単に「飯塚専用の凶器を作成した」ということになった。2009年のG1 CLIMAX以降はさらに大きなアイアンフィンガー(アイアンフィンガー・フロム・ヘル2号と名づけられている)を使用するようになった。
噛み付き攻撃
G・B・H加入後に使用。鉄製のマウスピース(アイアンティース・フロム・ヘル)を使用する場合がある。当然反則行為であるが、試合の流れを大きく変えるぐらいの威力を誇る。
入場テーマ曲 [編集]

TERRIBLE AIR
against rules(G・B・H加入時から使用)
タイトル歴 [編集]

IWGPタッグ王座:2回
第10代パートナーは長州力、第27代パートナーは山崎一夫
G1 TAG LEAGUE 優勝(2000年)
パートナーは永田裕志
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【2010/12/28 18:58 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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