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リンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson, LBJ, 1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国の第37代副大統領および第36代大統領。ケネディ政権の副大統領を務め、ケネディの暗殺の直後に政権を引き継いだ大統領。リベラルとして知られたケネディと対照的に、ジョンソンは民主党の中では保守的な人物として知られたが、公民権運動に対しては深い理解を示し、公民権法の早急な施行に向けて議会をまとめるなど積極的に貢献した。
国内政策の政治力ではフランクリン・ルーズベルトと並ぶ敏腕大統領であり、公民権法の施行を推進し非白色人種の差別是正に貢献したものの、対外的にはベトナム戦争に深く介入し国内の反戦運動の激化と世論の分裂を招いた。 目次 [非表示] 1 生い立ち 2 政治家へ 3 第二次世界大戦 4 上院議員 5 副大統領 6 大統領職 6.1 内閣 6.2 最高裁判所判事 6.3 公民権法 6.4 貧困対策 6.5 ベトナム戦争 7 引退 8 エピソード 9 陰謀論 10 脚注 11 関連項目 12 外部リンク 生い立ち [編集] リンドン・ベインズ・ジョンソンは1908年8月27日にテキサス州中央部のテキサス・ヒル・カントリーと呼ばれる地域にある農村、ストーンウォールで生まれた。彼の両親サミュエル・ジョンソンとリベカ・ベインズは、貧しい地域で農場を所有しており、彼らには更に4人の子供がいた。妹のリベカ、兄弟のジョセファ、サム・ヒューストン、ルシア。リンドン・ジョンソンは幼年期を通じて公立学校に通い、1924年にジョンソンシティー高校を卒業した。 1927年には、南西テキサス州教員養成大学(現:テキサス州立大学サンマルコス校)に入学した。校内活動や学校新聞の作成に参加し、苦労しながらも1931年に卒業した。なお在学中に1年休学し、テキサス州の貧しいメキシコ系移民の生徒が通う学校で教師(見習い)を務めている。 政治家へ [編集] ジョンソンは大学を卒業した後、ヒューストン高校で演説および討論を教えた。しかしながらすぐ教職を辞め、父親の力を借りて政治の世界に入った。ジョンソンの父親は、テキサス州議会で5期勤めており、テキサス州選出連邦下院議員サム・レイバーン(後に下院議長)の親しい友人だった。1931年にジョンソンはウェリー・ホプキンス州議会議員の連邦下院議員選挙に協力し、ホプキンスはその労に報いてジョンソンをリチャード・M・ケルバーグに紹介、推薦した。これによりジョンソンはケルバーグの立法秘書官となり、ワシントン立法補佐グループの議長の座を与えられた。 秘書としてのジョンソンは数々の影響力を持つ人々と知り合い、彼らがどのようにその地位に達したか、いかにして尊敬を集めているかといったことを学んだ。またフランクリン・ルーズベルト大統領のまわりで働いていた人達の何人か(例えば副大統領ジョン・ナンス・ガーナー)とは、同じテキサス仲間としてすぐに親しくなった。 秘書在任中、ジョンソンはテキサス出身のクローディア・アルタ・テーラー(レディ・バード・ジョンソンとして知られる)に出会い、数度のデートの後、1934年11月17日に結婚した。ジョンソン夫妻は、2人の娘、リンダ・バード(1944年生)およびルーシー・ベインズ(1947年生)をもうけた。 1935年には、テキサス州立青年局長に就任し、政府が若い人々のために、教育の充実と雇用の拡大をするよう尽力した。その活動によって政治的後援を構築することができた。ジョンソンはとてもタフな上司として部下の間では有名であった。彼は二年間長を務め、議会選挙へ出馬するために辞職した。 1937年にジョンソンはオースティン及び周辺町村を含むテキサス州の第10下院議員選挙区の特別選挙に出馬した。彼は妻の大きな支援を受けながら、ニューディール政策を政治要綱に掲げ、選挙活動を繰り広げた。 ジョンソンの当選後、フランクリン・ルーズヴェルト大統領はこの若いテキサス人への関心を示した。ジョンソンは海軍事務委員会(これは新人議員にとって非常に重要な意味を持つ)に直ちに指定された。彼はまた、主に自分の選挙区において、田舎の電化をはじめとした様々な発展のため奔走した。 1941年にジョンソンは上院の特別選挙に出馬し、現職のテキサス州知事であり、ラジオ・パーソナリティのW・リー・“パピー”オダニエルと議席を争った。この有名な州知事を前にジョンソンは全く歯が立たないと予想されたが、力強い選挙活動を展開し、非公式の開票速報はジョンソンの勝利を報じた。しかし、最終的に両陣営から大規模な不正が発覚し、ジョンソンも落選した。なお選挙運動の終盤において、ジョンソンはもし戦争が始まったら軍隊に志願すると約束していた(程なく1941年12月にアメリカ合衆国は第二次世界大戦に参戦)。 第二次世界大戦 [編集] 第二次世界大戦中にジョンソンは海軍少佐として従軍し、銀星章、アジア太平洋従軍記章および第二次世界大戦戦勝記念章を受章した。しかしながら、戦後ジョンソンの銀星章の受章は政治的な目的による物と推測されている。 1940年6月20日、初の平時の徴兵を定める法案が議会に提案された時、ジョンソン下院議員は自分を海軍予備役として徴兵を免除する約束を取り付けた上で、この法案に同意した。1941年、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦すると、ジェームズ・フォレスタル海軍省次官に自分を非戦闘員として配置するよう求め、テキサスと西海岸の造船所設備の検査役となった。 しかし春ごろになると、テキサスの有権者たちはジョンソンが戦争で活躍することを望んでいたし、また1940年の選挙活動における「もしアメリカ合衆国が参戦したら、前線で戦う」との誓約を実行するよう求める声が高まってきたので、ジョンソンは政府に、より戦闘地帯に近い配置にするよう求めた。ルーズベルト大統領は、南西太平洋地域について、軍の指揮系統を経由することで歪曲される恐れのない、政治家による信頼できる情報を得たいと考えていた。フォレスタルの提案から、ルーズベルトはジョンソンを南西太平洋の偵察チームに配置した。ジョンソンはオーストラリアのメルボルンでダグラス・マッカーサー大将と会合し、第22爆撃隊に所属され、偵察目標はニューギニア島にある大日本帝国海軍のラエ飛行場とされた。司令官は外部の偵察員は必要ないと感じていたが、ジョンソンは必要性を強く主張した。 偵察活動においてジョンソンの搭乗するB-26は日本軍機に攻撃を受ける(このとき彼の乗機B-26を攻撃したのは大空のサムライこと坂井三郎らの所属する台南航空隊零戦隊だったという)。そしてメルボルンに戻り、マッカーサーに報告するや否や、マッカーサーはジョンソンと生き残った偵察員に銀星章(最高位から3番目に位置する勲章)を授与した。 1942年6月9日に、ニューギニア付近のポートモレスビーおよびサラマヌアでの勇気ある行動に関して。南西太平洋地域の情報活動任務の間、ジョンソン少佐は戦闘条件の直接情報を得るために、ニューギニアの敵空域に関する危険な空中戦使命を帯びた観察者として志願した。目標空域に近づくとともに、8機の敵機に遭遇した。この時に、ジョンソン少佐の乗機は機械的問題を生じ、単独での帰還を強いられた。敵機の格好の目標となったが、彼はその危険にもかかわらず冷静さを示した。彼は勇敢な行動により帰還し有益な情報を得ることが出来た。 帰還後、ジョンソンは「我々の軍用機は日本の戦闘機にはるかに劣っていた」「士気は高くなかった」などと喧伝し、海軍に大きな権力を持つ、ジョンソンを会長とした小委員会を議会に承認させた。しかし活動内容は非難を浴び、ルーズベルト大統領は、軍務に就く国会議員をオフィスに戻すことを命じた。また、ジョンソンは解任された。 上院議員 [編集] 1948年にジョンソンは再び上院選に出馬し当選した。さらにこの上院議員選挙も論争になっている。ジョンソンはその圧勝により「地滑りリンドン」と呼ばれた。上院では軍事委員会に指名され、1950年の後半には調査小委員会の結成に貢献した。ジョンソンは結局その議長となり、防衛費と予算効率の多くの調査を行った。これらの調査の結果によりジョンソンは他の議員の尊敬と共に全国的な注目を集めた。 上院議員として数年の活動後に、ジョンソンはリーダーシップを得、1953年には少数党院内総務に選出された。ジョンソンの最初の活動は委員会への選出から年功制を取り除くことであった。1954年にジョンソンは上院議員に再選され、民主党は上院で多数派となりジョンソンは院内総務となった。ジョンソンの任務は立法の予定と民主党支持法案可決の支援であった。 副大統領 [編集] NASAで演説を行うケネディ(檀上)とジョンソン 南ベトナムのグエン・ゴク・ト副大統領顧問と ジョンソンの上院における成功は、民主党大統領候補指名へと結びついた。1956年のテキサス州での民主党全国大会でジョンソンは「秘蔵」候補者であった。1960年に民主党大会で彼は409票を得たが、大統領候補の指名はマサチューセッツ州の上院議員、ジョン・F・ケネディに行われた。1960年の終わりにケネディは副大統領候補にジョンソンを指名した。 1960年11月にケネディ=ジョンソンは小差でリチャード・ニクソンおよびヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを打ち破った。しかしこの選挙の際に、ケネディの父親が、関係の深いマフィアに票集めを依頼するなどの大規模な不正を行ったことや、ケネディ本人も義弟のピーター・ローフォードと、その親友のフランク・シナトラを通じて、マフィアのサム・ジアンカーナに選挙協力を依頼していたことが報告されている。 大統領就任宣誓の際ケネディは、大統領雇用機会均等委員会を率いるように、人種差別問題に関心の深いジョンソンを任命した。同委員会でジョンソンは、自分の側近を白人のみでまとめたケネディとは異なり、黒人及び他の少数人種と共に働いた。冷戦下でキューバ危機やベルリン危機などの東側諸国との対立、さらにベトナム情勢の悪化が進む中、副大統領としてジョンソンは更にいくつかの国際的な任務をこなし、それらはジョンソンに国際問題への洞察力を与えた。 ベトナム情勢の悪化が進む中でケネディ政権は、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、ケネディはジョンソンとロバート・マクナマラ国防長官を1961年にベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で、「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」として迅速な支援を訴え[1]、同じくマクナマラ国防長官も、「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し[2]、ケネディ大統領の決定にお墨付きを与えた。 その後ケネディ政権は、アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナムに駐留する「軍事顧問団」を、1961年末にはジュネーヴ協定に違反する規模である3,164人に増加させ、さらに1963年11月には16,263人に増加させた。併せて1962年2月には「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、その規模、内容ともに実質的にはアメリカ軍の正規軍と変わらないものとさせた。さらに1962年5月には南ベトナムとラオスへの支援を目的に、タイ王国内の基地に数百人規模の海兵隊を送ることを決定するなど、ケネディとジョンソン、マクナマラを中心としたケネディ政権の下で、アメリカはベトナム戦争への本格介入へ突き進むこととなった。 副大統領職在任中は、ケネディ兄弟の高い支持率の陰で、概して、ワシントンでは傍流扱いとされ、「外遊用の副大統領 」と揶揄され、酒に依存し抑うつ的であったといわれる。 大統領職 [編集] 大統領宣誓するジョンソン ハンフリー副大統領とともに ラスク国務長官とマクナマラ国防長官とともに SEATO首脳らとともに 1963年11月22日のケネディ大統領暗殺事件後に、ダラス近郊のラブ・フィールド空港に駐機している大統領専用機・エアフォース・ワン機内で大統領として宣誓した。ジョンソンは一家の友人でもあった連邦判事サラ・T・ヒューズに対して宣誓したが、女性に宣誓した初の大統領であり、また聖書ではなくカトリックのミサ典書に手を置いて宣誓したのも初めてであった。突発的な事情で副大統領職から大統領職に昇格したのは1901年のマッキンリー大統領暗殺事件以来のことであった。 ジョンソンの大統領職は就任直後、障害に直面した。ケネディ存命中は、政権のNo.2は司法長官のロバート・ケネディであったため、自身も自己の政治家としての半生が副大統領職どまりと感じていたジョンソンではあったが、ケネディが任命した閣僚の一部(その多くはケネディの個人的な友人でもあった)がジョンソンを尊重せず、忠実に職務に当たらないと判断し、早急な入れ替えを試みた。なお、ケネディ大統領の実弟で司法長官のロバート・ケネディについては、互いに敵意を抱いてはいたものの、必要とし留任させた他、ケネディやジョンソンとともに南ベトナムへの「軍事顧問団」の増強を指揮したマクナマラ国防長官も留任させることになった。 なお、ジョンソンは1964年アメリカ合衆国大統領選挙において共和党のバリー・ゴールドウォーターを大差で破り、改めて選挙で大統領に選ばれ国民からの信任を得た形となった。 内閣 [編集] 職名 氏名 任期 大統領 リンドン・B・ジョンソン 1963–1969 副大統領 ヒューバート・H・ハンフリー 1965–1969 国務長官 ディーン・ラスク 1961–1969 財務長官 C・ダグラス・ディロン 1961–1965 ヘンリー・H・ファウラー 1965–1968 ジョゼフ・W・バー 1968–1969 国防長官 ロバート・マクナマラ 1961–1968 クラーク・M・クリフォード 1968–1969 司法長官 ロバート・ケネディ 1961–1964 ニコラス・デブ・カッツェンバック 1964–1966 ラムゼイ・クラーク 1966–1969 郵政長官 ジョン・A・グロノウスキー 1963–1965 ラリー・オブライエン 1965–1968 W・マーヴィン・ワトソン 1968–1969 内務長官 スチュワート・リー・ユードル 1961–1969 農務長官 オーヴィル・ロスロップ・フリーマン 1961–1969 商務長官 ルーサー・ハートウェル・ホッジス 1961–1965 ジョン・トーマス・コナー 1965–1967 アレクサンダー・ビュエル・トロウブリッジ 1967–1968 キュロス・ロウレット・スミス 1968–1969 労働長官 W・ウィラード・ウィルツ 1962–1967 保健教育福祉長官 アンソニー・ジョセフ・セレブレズ 1962–1965 ジョン・ウィリアム・ガードナー 1965–1968 ウィルバー・ジョセフ・コーエン 1968–1969 住宅都市開発長官 ロバート・クリフトン・ウィーヴァー 1966–1968 ロバート・コールドウェル・ウッド 1969–1969 運輸長官 アラン・スチーブンソン・ボイド 1967–1969 最高裁判所判事 [編集] エイブ・フォルタ - 1965 サーグッド・マーシャル - 1967 公民権法 [編集] 公民権法施行の文書に署名するジョンソン 「自由で平等な国」を自称して来たアメリカであったが、建国以来200年近くの長きに渡り、アフリカ系アメリカ人などの少数民族に対する法の上での人種差別が認められてきた。しかし、第二次世界大戦中におけるアフリカ系アメリカ人兵士の参戦や、戦後間もない1950年代に入って起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件事件などをきっかけに、この様な法の上での人種差別をなくそうとする公民権運動が全人種の間で盛り上がりを見せてきていた。 この様な動きに対して、人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示したジョンソンは、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、保守(人種差別主義)議員の反対に対して粘り強く議会懐柔策を進めた[3]結果、1964年7月2日に公民権法の制定文書に署名し、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。 貧困対策 [編集] ジョンソン政権下の1964年に、貧困対策(War on Poverty)を提唱。低所得者に対する公的扶助としてメディケア(医療費の補助)、フードスタンプ(食費の補助)などが制度化された。 ベトナム戦争 [編集] 左からジョンソン、アメリカのウィリアム・ウェストモーランド将軍、南ベトナムのグエン・バン・チュー国家元首とグエン・カオ・キ首相(1966年10月) ジョンソン政権は、ベトナム戦争に本格介入するきっかけを作ったケネディ前大統領やマクナマラ国防長官が、1963年当時のゴ・ディン・ジェム政権と対立した結果、計画していたと言われる軍事顧問団の縮小政策を実施に移すことができなかった。 1961年副大統領時代にベトコンに手を焼いていたため枯葉剤を散布する決断をし、ゴ・ディン・ジェムもこれに賛成した。ゴ・ディン・ジェムはベトコンの潜む森を知っており、見事に枯葉剤作戦は成功したが、これが後に深刻な問題となる。 1964年に入り、南ベトナムへの魚雷攻撃を行う北ベトナム軍船艇がアメリカ海軍の艦艇に誤爆した。その数日後アメリカ軍は北ベトナムの魚雷攻撃に見せかけたトンキン湾事件をでっち上げて本格介入への口実を作り、さらにその後アメリカ軍基地が爆破され、多くのアメリカ軍将校が爆殺された事にジョンソンが激怒し、報復として北爆を開始した[4]。但し、ジョンソンは当時北ベトナムに軍事顧問団を多数送っていたソビエト連邦や中華人民共和国との関係を考慮して、北ベトナムの基地関連施設に限定した空爆を行うに止めている。ハノイ港にはソ連の輸送船から荷揚げされた兵器もあったが、ジョンソンはそれすら攻撃を行うことはなかった。これはもう一つの超大国と戦争にならないためである。 1965年から1968年までの間、北爆やアメリカ軍兵士の増強などを行い戦争を連続的に拡大していった。それは何万ものアメリカ軍兵士の死と、およそその60倍のベトナム人の死、そして最終的にはアメリカの撤退と南ベトナムの崩壊を招いた アメリカ兵の戦死者がベトナムで増え、テレビで戦場の模様が放映されるとともにジョンソンの人気は低下した。特に「おい、おい、LBJ、今日は何人の子供を殺した?」などと書いたプラカードを掲げる学生達の抗議に直面し、マスコミからは連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。その後、CBSの人気キャスターであるウォルター・クロンカイトからも参戦への疑問を表明されるにいたり、1968年には北爆の中止を表明するとともに、次の大統領選挙への不出馬を表明することとなった。 引退 [編集] ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して辛勝したが、ジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明し、同時に世論調査では最低の支持率を記録した。テト攻勢の後の1968年3月31日、ジョンソンは夜のテレビ演説で大統領選で民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由としてベトナム戦争に関する国内世論分裂の拡大を挙げた。 民主党は結局副大統領ヒューバート・ハンフリーを指名したが(ロバート・ケネディは、党大統領候補指名選のキャンペーン中に兄同様、暗殺された。) 、1968年の大統領選では共和党候補のリチャード・M・ニクソンに敗北した。大統領職後の1969年に、ジョンソンはテキサス州ジョンソンシティーの農場へ帰宅した。その後ジョンソンは1973年1月22日に重い心臓発作を起こし死去した。 エピソード [編集] サインペンが世に広まったのもジョンソンの功績である。大日本文具が「新しいペン」としてサインペンを発売したが、日本では全く売れず、アメリカに活路を求めてサンプルを配布したところ、全く偶然にジョンソンが一本入手。ジョンソンはこのペンを気に入り大量注文。この話が全米に伝わり爆発的に売れ行きが伸び、その勢いが日本に逆輸入されるほどであったという。 ジョンソンの身長は6フィート3と1/2インチ(192cm)であった。これはエイブラハム・リンカーンの6フィート3と3/4インチに継ぐ高さであり、二番目に背の高い大統領であった。 ジョンソンはテキサス州では大物政治家であったが、ワシントンではケネディ兄弟に支持率で大きく水をあけられており、副大統領どまりの地味な政治家といわれていた。 ジョンソンは倹約家で有名だった。大統領としてさえ、ホワイトハウスの録音テープには自らが貧しく巨額の負債があるため、カメラマンに無料で家族のポートレートを撮影してくれるよう頼んでいることが記録されていた。実際には彼は裕福であったが、結局無料で写真を受け取った。ホワイトハウスの記者団は、ホワイトハウスで使われていない部屋の明かりを全て消すという彼の習慣に関する冗談をよく話した。ジョンソンの秘書は、彼が発泡スチロールのコップを洗って再使用していたことを後に明らかにした。 ジョンソンは他人からの評価を非常に気にした。公民権に関する演説後に彼は32人の知人に電話を行い、演説への感想を尋ねた。 ジョンソンの弟子のボビー・ベイカーはラスベガス、シカゴ、ルイジアナなどのマフィアと巨額の取引をしていたという。それでもジョンソンはベイカーのことを「自分が最も信頼する友人の一人」と言っていた。彼はジョンソンが上院院内総務だった頃8年間に渡り秘書を務めた。 ジョンソン大統領図書館建設の際に、完成直前になって急遽彼が「執務室の複製が欲しい」と言い始めた為に、屋上に執務室のレプリカが作成されることになった。しかしながら、面積が足りず実物の10分の8以上の大きさが作成することが出来なかったために、夫人が彼を説得し現在の形になったといわれている。 陰謀論 [編集] ジョン・F・ケネディの暗殺をジョンソンが首謀していたと主張する陰謀論が存在する。暗殺当時ケネディは個人秘書官イーヴリン・リンカーンを含む親友に、ジョンソンが少なくとも4件の犯罪捜査に関与していたことから1964年の大統領選でジョンソンを入れ替えて別の人物を彼の副大統領候補にすることを考えていたことを語っている。[要出典] この陰謀説を元に、映画監督オリバー・ストーン は映画『JFK』でジョンソンが、暗殺犯マック・ウォレスを使いケネディ大統領を暗殺した首謀者であると描いた。また2005年11月、ジョンソンの元顧問弁護士バー・マクレランが『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』という本を書き、ジョンソン真犯人説を発表した。 ケネディ暗殺から2時間8分後、大統領専用機エアフォース・ワンの機内で大統領就任式が行われ、夫の血に染まったピンクのスーツを着たままのジャクリーン・ケネディの隣でジョンソンは大統領就任を宣誓した。宣誓を終えたジョンソンは、カメラマンから多くの写真を撮られているが、その中の一枚に、ジョンソンの旧知の友人であるアルバート・トマス下院議員がジョンソンに向かってウインクし、カメラに背を向けたジョンソンの横顔がトマスに笑いかけているように見えるものがあった。この写真は誤解を招くことを懸念して当時は一般に公開されず、後に公開された。 ただし、ジョンソン自身もケネディ暗殺の直後、エアフォース・ワンの機内で暗殺に脅えており[5]、また大統領退任後にCIAによる陰謀の可能性を示唆する等、ジョンソン黒幕説には異論も多い。 PR |
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