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【2025/05/01 20:08 】 |
├─≠ョ─ヵラスと黄川田徹
├─≠ョ─ヵラス 保守党
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 岩手県は民主党代表を務めた小沢一郎の地盤であることから、民主党内でも小沢グループに属している。
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【2011/01/12 02:47 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
リチャード・ニクソン
リチャード・ミルハウス・ニクソン(Richard Milhous Nixon, 1913年1月9日 - 1994年4月22日)は、アメリカ合衆国の第36代副大統領および第37代大統領。
デタント政策を推進し、ソビエト連邦との核兵力の削減やベトナム戦争の終結、中華人民共和国との国交成立など平和主義に尽力し、また、環境保護局の設置などを通じ公害の抑制や環境保護にも力を注いだ。しかし、「ウォーターゲート事件」により任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となった。
目次 [非表示]
1 生い立ち
2 弁護士
3 海軍時代
4 下院議員・上院議員
5 副大統領時代
5.1 「チェッカーズ・スピーチ」
5.2 副大統領就任
5.3 「キッチン討論」
5.4 アイゼンハワーとの確執
6 1960年の大統領選挙
6.1 予備選挙
6.2 本選
6.2.1 テレビ討論
6.2.2 ケネディの選挙不正への対応
6.2.3 敗北
7 大統領選挙落選後
8 1968年の大統領選挙
8.1 予備選
8.2 選挙戦
9 第37代合衆国大統領
9.1 内閣
9.2 大統領任期中の主な施策
9.2.1 デタント推進
9.2.2 ベトナム(インドシナ)戦争の終結
9.2.2.1 選挙公約
9.2.2.2 ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉
9.2.2.3 アメリカ軍の完全撤退
9.2.3 中華人民共和国の承認
9.2.3.1 電撃訪問
9.2.3.2 国交樹立へ
9.2.4 環境対策の推進
9.2.5 麻薬取締局の設置
9.3 大統領選挙の大勝利
9.4 副大統領交代
9.5 ウォーターゲート事件と辞任
9.6 支持基盤
10 大統領辞任後
10.1 ウォーターゲート事件の後遺症
10.2 イメージの修復
10.3 死去
11 評価
12 プライベート
13 日本語文献
13.1 著書
13.2 関連文献
14 ニクソンに関係する作品
14.1 ニクソンを描いた映画
14.2 ニクソンを(基とした)描いたテレビドラマ
14.3 ニクソンを描いた舞台
14.4 ニクソンが出演する映画
15 脚注
16 関連項目
17 外部リンク
生い立ち [編集]

1913年にカリフォルニア州南部、ロサンゼルス近郊のヨーバリンダ(Yorba Linda)に生まれたニクソンは、ギリシア系の父フランシスと、ドイツ系の裕福な家の出身で熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)によって、福音主義のクエーカー教徒として育てられた。なお果樹園を経営する父親は元々クェーカー教徒でなかった[1]上、1922年に母の実家の近くのウィッティアに移ってからは、父親は油田で技術者として働き、その後食料品およびガソリン販売店に専念したこともあり、それほど宗教活動には熱心ではなかった[2]。
実家はクエーカー教の経典を順守し贅沢を避け、裕福でもない中産階級といった感じの質素な暮らしをしており、ニクソンの幼少時のしつけは、飲酒やダンス、罵り言葉を差し控えるような保守的な福音主義の遵守に特徴づけられる。なおニクソンは幼少時の事を「貧しかったが幸せだった」と回顧録などで記述しているが、父親が経営するガソリン販売店の経営が軌道に乗っていた上に、ピアノやバイオリンを習う余裕があったことから、決して貧しいものではなかった[3]。しかし4男のアーサーや長男のハロルドが肺病で闘病生活を続け、医療費がかかったこともあり、ニクソンは青年期に多くのアルバイトを体験している。
その後ニクソンは地元のウィッティア高校を卒業し、奨学金を受けてハーヴァード大学への進学が決まっていたものの、兄弟の多額の医療費の負担から、実家が東海岸での1人暮らしの資金を負担できないこともあり、母親の実家が奨学金を設けていた地元のウィッティア大学(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学、1934年に2番目の成績で卒業し、奨学金を受けデューク大学法学大学院で法律を学んだ。
弁護士 [編集]

デューク大学法学大学院を三番目の成績で1937年に卒業し、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。ニューヨーク州の大手弁護士事務所への就職を希望したが、東部の人間との人脈に恵まれなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめ、カリフォルニアに戻って地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職した。1939年には自らの弁護士事務所を開業した[4]。
弁護士として活動中の1940年6月11日に、ネバダ州出身の高等学校教師で、演劇サークルで知り合ったセルマ・キャサリン・ライアンと結婚した。その後1941年12月に物価統制局に転職し、夫婦でワシントンD.C.に移転することとなった。
海軍時代 [編集]



アメリカ海軍時代のニクソン
1941年12月よりアメリカも参戦した第二次世界大戦中は、1942年8月に士官募集に応募してアメリカ海軍に入隊し、補給士官に任命され1943年5月より南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島、さらにはニューカレドニアなどへ配属された。
海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。
1944年7月にはブーゲンビル島の前線より帰還し、カリフォルニア州アラメダの海軍基地で勤務した。その後1945年1月にはアメリカ東部の基地への移転を命じられ、そこで終戦を迎えた。海軍時代には後に国務長官になるウィリアムズ・P・ロジャーズと知り合っている。
下院議員・上院議員 [編集]

1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴う海軍除隊後にペプシコ社の弁護士になり、ペプシコーラの世界進出に協力。各国の炭酸市場の切り崩しというロビー活動のもたらす「アメリカの産業を保護する」という大義名分は満足感を生み、さらに国際的な弁護士の看板はヨーロッパや日本で人脈を築くのにも役立ったが、この仕事を通じて知り合ったアメリカをはじめとする各国の政治家の倫理観の低さに本気で呆れていたという。


上院議員選挙時のニクソン
しかしその本人が、母校であるウィッティア大学の総長や、ニクソンの母の知人のバンク・オブ・アメリカのウィッティア支店長らの地元有力者からの依頼を受け、1946年に地元のカリフォルニア州の第12下院選挙区から共和党候補として立候補した。このニクソンの立候補に対して妻のパットは当初反対したものの、その後女性票を獲得するために自ら集会であいさつ回りをするなどの献身的な支えもあり、民主党選出で、労働組合をその主な支持基盤とする現職のジェリー・ヴーァリスを破り下院議員に選出された[5]。
同じ年の選挙では、ニクソンの将来のライバルとなるマサチューセッツ州のジョン・F・ケネディも初当選し、同じ南太平洋地域で従軍した海軍の退役軍人出身と言う点でも共通していたこともあり、友好的な関係を築いた。
その後ニクソンは、東西冷戦の激化を受けて設けられた下院の非米活動調査委員会のメンバーになり、ジョン・フォスター・ダレス国務省顧問やウィリアム・P・ロジャースなどの協力を受けて、反共主義で高名な共和党選出の上院議員のジョセフ・マッカーシーとともに、前政府高官アルジャー・ヒスの偽証罪の裁判に協力したことで、「反共の闘士」としてその名が全米に知れ渡った。
1950年には上院への鞍替えを試み、女優であり民主党選出議員のヘレン・ギャーギャン・ダグラスと争った。地元の油田開発に反対するなどのダグラスのリベラルな言動が有権者に嫌われたうえに、選挙の活動期間中に朝鮮戦争が勃発し反共的な風潮が強まったことも追い風となり、ダグラスに大差をつけて当選し上院議員に選出されたが、この選挙の際のニクソンの言動が後々まで尾を引く。ニクソンは、夫が左翼シンパとして有名であったものの、自らは「単なるリベラル派」との評価をそれまで受けていたダグラス[6]に対して「国家社会主義者」のレッテルを貼ったが、そのことが多くのリベラル派を自認するジャーナリストの反感を呼び、後の副大統領選挙の際に執拗な攻撃を受けるきっかけとなる。
副大統領時代 [編集]

しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、1952年に行われた大統領選挙において、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に選ばれた。大統領選での顕著な出来事の1つは、当時普及が進んでいたテレビの革新的な使用だった。
「チェッカーズ・スピーチ」 [編集]


「チェッカーズ・スピーチ」を行うニクソン
副大統領候補選定前よりニクソンは、ニクソンが金銭的に余裕がないことを知った地元の支持者たちが作った支援基金団体から、政治活動資金のための資金援助を受けていた。民主党の大統領候補のアドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、リベラル派であったニューヨーク・ポスト紙は、副大統領候補選定後の9月にニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し[7]、さらに「物品の提供も受けた」とも批判した。その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた[8]。
これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否した上で、その後有名になるスピーチ「チェッカーズ・スピーチ」を行い、自らに対する攻撃に対して反論した。その中でニクソンは、個人資産の詳細を事細かく説明したほか、民主党のハリー・トルーマン政権の閣僚の妻達の中に、「院外活動をする人々から高価な毛皮のコートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」といいトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した。
併せて、「物品の提供を受けたことはないが、子供たちが犬を飼いたいと言っていることを耳にしたテキサス州の支援者からコッカースパニエルをもらった。しかし、娘が『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはない」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた[9]。
この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払しょくし、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補としてとどめることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補としてとどまることになった。しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部のジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった[10]。
副大統領就任 [編集]


リビアのイドリース1世国王とともに


フルシチョフとともに


サウジアラビアのサウード・ビン・アブドゥルアズィーズ国王とアイゼンハワーとともに
この様な逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは、大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。
その後ニクソンは初の外国への公式訪問として、キューバやベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際の、暴徒化し地元国の警察でさえコントロールできなくなった反米デモ隊に対する、沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。
またその後も、この頃旧宗主国からの独立が相次いでいたアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った他、同年の10月から11月にかけて、日本や中華民国、韓国などの北東アジアからフィリピンやラオス、カンボジアなどの東南アジア、インドやパキスタン、イランなどの西アジア、オーストラリアやニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。
「キッチン討論」 [編集]
この様な外遊の一環として、1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都のモスクワを初めて公式訪問した。
その際に、博覧会会場で、ソ連の指導者であるニキータ・フルシチョフと、展示してあるアメリカ製のキッチンおよび電化製品を前にして、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星「スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。
この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。その討論内容は、冷戦下のアメリカ国民のみならず自由諸国の国民に強い印象を残し、後に「キッチン討論」として有名になった。
アイゼンハワーとの確執 [編集]
アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、1954年3月にアドレー・スティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役を押し付けられるなど、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。
しかしながら、1955年9月24日のアイゼンハワーの心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11月の発作の際の3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督したが、通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。その上、1956年の再選時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知ったレン・ホール共和党全国委員長らによって、この指示が取り消されたということもあった。
さらにアイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。これらのアイゼンハワーによる冷遇を感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった[6]。
また、この頃はアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを、陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている[6]。
1960年の大統領選挙 [編集]

予備選挙 [編集]
1951年のアメリカ合衆国憲法修正第22条の批准完了によって、アイゼンハワー大統領は再度大統領職を求めて出馬することができなかった。1952年と1956年の2度選出されていた。アイゼンハワーは1960年時点でもその人気は高かったものの、健康問題とそれの影響を受けた引退の願望があり、もし可能だったとしても再出馬はありそうに無かった。この様な状況を受けて副大統領であったニクソンは共和党予備選挙に出馬することとなった。
1959年に行われた共和党予備選挙においてニクソンは、共和党中道左派の指導者で、ニューヨーク州知事で大富豪のネルソン・ロックフェラーから、あたかも共和党の指名争いで重大な挑戦を受けたような形になった。しかし、ロックフェラーは全国遊説を行った後で共和党の大半がニクソンを支持していることが分かったので、大統領候補にはならないと表明した。ロックフェラーの撤退後、ニクソンは共和党の指名については意味のある反対に直面しなかった。
シカゴで開催された1960年共和党全国大会では、アリゾナ州選出の上院議員のバリー・ゴールドウォーターが10票の代議員票を獲得しただけで、ニクソンは圧倒的な支持を得て共和党の大統領候補に指名された。
本選 [編集]
テレビ討論 [編集]


ケネディとのテレビ討論
大統領選挙の本選において、ケネディ陣営による大規模な選挙不正が行われた事が明らかになっているにもかかわらず、現在でも多くの人々によって「ニクソンの敗北の最も重大な要因は最初のテレビ討論だった」と喧伝されている。夕刻でひげが伸びた状態の上、スタジオへ行く途中で膝を怪我して顔色が悪かったにもかかわらず、ニクソンは「議論の内容が重要である」としてテレビ用のメイクアップを拒絶した。テレビ討論前には完全に優勢であったニクソンは、その勢いを保ったまま、外交政策への専門知識を持った思慮深い投票者を勝ち取るつもりでいた。
しかし当時のアメリカでは白黒のテレビしか普及しておらず、多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用した、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。なお、前述のようにこの時ニクソンは膝を怪我しており、そのことがニクソンの表情をひときわ気難しく見せる結果になった上、テレビ用のメイクアップを拒否したことも外観を貧弱に見せることになった。一方のライバルであるケネディは、服飾コンサルタントが選んだスーツを身に着け、テレビ用のメイクアップをこなしていたこともあり、若く健康的に見えた。
討論をラジオで聞いた人々は「討論の内容はニクソンが勝った」と考えたが、結果的には、討論内容には劣るものの、テレビ的な見栄えに勝るケネディに引き込まれたテレビ視聴者の票がニクソンからケネディに動き、選挙不正もあり最終的にケネディに僅差での勝利を与えたと言われる。これ以降、アメリカの各種選挙においては、本格的に服飾やメイクアップなどの外観のコンサルタントが導入されることになる。
ケネディの選挙不正への対応 [編集]
この時の選挙において、ケネディが予備選挙中に友人のフランク・シナトラから紹介してもらったシナトラの元恋人のジュディス・キャンベルを経由して、イリノイ州シカゴのマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナを紹介してもらい、ウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した他、FBIの盗聴により、シナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている[11]。
さらに、禁酒法時代に密造酒の生産と販売を行っていた関係からマフィアと関係の深いジョセフ・ケネディ・シニアも、マフィアの協力の下、マフィアやマフィアと関係の深い労働組合、非合法組織を巻き込んだ大規模な選挙不正を行っていたことが現在では明らかになっている[12][13]。
これらのケネディ陣営に対するマフィアによる選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの大票田における大規模な不正に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、アイゼンハワー元大統領から「告発を行い、泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている[14]。ただしニクソンは、ニクソンが過去に精神科のカウンセリングを受けた過去がある証拠をケネディ陣営がつかんでいた(現在ではこのような経歴が問題視されることはない)ものの「切り札」として公開していなかったことをつかんでおり、「やぶへびになることを恐れ告発に踏み切れなかった」という意見もあるが、いずれにしてもこの際のニクソンの潔い行動は、ニクソンに批判的な人々からも称賛を受けている。
敗北 [編集]
アイゼンハワーからの説得を受けてケネディ陣営に対する告発を取りやめたニクソンは、最終的に得票率差がわずか0.2パーセント(ケネディ49.7パーセント/34,220,984票、ニクソン49.5パーセント/34,108,157票)という、歴史上に残るほどの僅差で敗れた。なおケネディは民主党党員ではあるものの、前記のように友好的な関係を築いていていたこともあり、ニクソンがアイゼンハワー政権の副大統領候補者に選ばれた時、ニクソンを祝う一番の友人のうちの1人だった。
大統領選挙落選後 [編集]

大統領選挙落選後は、ニューヨーク州に移りペプシコ社などの大企業の弁護士として活動していた。なお、この不遇期には副大統領時代からの友人であった岸信介が度々世話をしており、顧問先を紹介したり、日本に招いて弟の佐藤栄作を交えてもてなしたりしている。このことは、ニクソン復権後、佐藤政権における沖縄返還などの日米関係に少なからず貢献することになった[15]。
大統領選挙落選の2年後の1962年11月には、政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬するが、その思いも空しく対立候補のエドムンド・“パット”・ブラウンに大差で敗れ落選した。
選挙後にビバリーヒルズのビバリー・ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見でニクソンは焦りのあまり、詰め掛けたマスコミの記者団を痛烈に批判したあげく「もう二度と記者会見をしない」と口走る始末であった。そのため、多くの国民が彼の政治生命の終わりを感じ、同様に多くのマスコミも「ニクソンはもう二度と政治の第一線に浮かび上がることが無いであろう」と評した。
しかしその後も、ペプシコ社の弁護士として世界各国を訪れる傍ら、日本を訪問した際には駐日大使で学者のエドウィン・O・ライシャワーに対して、アメリカによる中国共産党政府の早期承認を説くなど、持ち前の洞察力と行動力を生かして政界への復活を画策し続けた[16]。
1968年の大統領選挙 [編集]

その後アメリカは、ケネディ政権下で軍事介入が拡大され、その後を継いだリンドン・B・ジョンソン政権下で正規軍の地上部隊が参戦するなど、軍事介入が本格化したベトナム戦争をめぐり国内の世論は分裂し、反戦運動が暴徒化するなど混乱状態に陥った。
ニクソンはカリフォルニア州知事選挙での敗北で、親共和党の保守派を含む多くのマスコミから「再起不可能」とまで言われていたものの、そのような状況を打開すべく、再び第一線の政治家への復帰を目指し1968年の大統領選挙に出馬する。
予備選 [編集]


1968年の大統領選挙時のニクソン
共和党の予備選挙ではニューヨーク州知事のネルソン・ロックフェラーや、カリフォルニア州知事のロナルド・レーガン(のちの大統領)などと争い終始リードを保ち、1968年8月5日から8日にかけてフロリダ州のマイアミビーチで開かれた党大会において、ニクソンは1回の投票で候補者に指名され復活を遂げた。副大統領候補にはメリーランド州知事のスピロ・アグニューを選んだ。
なお民主党は、1968年8月26日から29日にかけてシカゴで行われた党大会に、同党選出のリンドン・B・ジョンソン大統領のベトナム政策に反対するデモ隊が押しかけ、リチャード・J・デイリー市長が動員したシカゴ市警と衝突し、流血の事態となり600人以上の逮捕者を出すなど大混乱に陥った。最終的に民主党はジョンソン政権の副大統領のヒューバート・H・ハンフリーを大統領候補に選んだが、この衝突の模様が全米にテレビで流され反感を買うこととなった。
選挙戦 [編集]
選挙戦でニクソンは、公民権運動やベトナム反戦運動が暴徒化、過激化し違法性を強めることに対して、「法と秩序の回復」を訴えた。さらに民主党のケネディ政権が始めたベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し、「これを実現する秘密の方策がある」と語った。
対する民主党の大統領候補のハンフリーは、「偉大な社会」計画の継承を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張したが、一方で外交政策、ベトナム政策に関して政権から次第に距離を置き始め、批判的な姿勢に転じた。なお他に第三党の候補者として、民主党の前アラバマ州知事で、人種隔離政策を支持する綱領を掲げるジョージ・ウォレスが立候補した。ウォレスは北ベトナムへの無差別爆撃の継続を訴えるカーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナム戦争における北ベトナムに対しての強硬な政策の実施を主張した。
ハンフリーは選挙戦が進むにつれニクソンに肉薄し、一時は支持率で逆転するなど接戦となった。結果は一般投票でのニクソン、ハンフリー両候補者の得票率の差が1.2%と、まれに見る接戦をニクソンが制して、第37代合衆国大統領に就任する。
第37代合衆国大統領 [編集]



就任式


ニクソン大統領とアグニュー副大統領


ニクソン大統領と側近
1969年1月20日に大統領に就任した。大統領就任当時は、ケネディ政権によって始ったベトナム戦争に対する反戦運動が過激化しており、過激な運動を嫌う保守層がニクソンの掲げた「秩序の回復」のキャッチフレーズを支持した上、その後のジョンソン政権下で泥沼化していたベトナム戦争からの早期撤退を公約したことで、反戦的なリベラル層からの大きな支持も獲得した。
就任後は、冷戦下で対立関係にあった東側諸国に対して硬直的な態度を取り続ける国務省を遠ざけ、官僚排除、現実主義・秘密主義外交を主とするホワイトハウス主導の融和外交を展開し、国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーとともに、ハリー・トルーマン政権下より長年にわたり継承されていた「封じ込め政策」に代えて、融和的な「デタント政策」を推進する。これらの外交における大きな功績のみならず、下記のような内政における様々な功績も高い評価を受け、1972年の大統領選挙には地滑り的な大勝利を挙げて再選される。
ウォーターゲート事件の責任を取り辞任したこともあり、辞任後から1980年代頃まではその功績が過小評価された傾向にあるものの、1973年に実現にこぎつけたベトナム戦争における南ベトナムからのアメリカ軍の完全撤退や、冷戦当時ソ連と対立していた中国共産党率いる中華人民共和国の承認など、主に外交面で行った施策がその後高い評価を受けている。
内政的にもアメリカ環境保護局(EPA)の設置やアメリカ全土の高速道路における最高速度制限の設定、麻薬取締局 (DEA) の設置など、主に環境対策面で大きな功績を残していることもあり、近年はその功績が見直されている。
【2011/01/10 17:47 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
リンドン・ジョンソン
リンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson, LBJ, 1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国の第37代副大統領および第36代大統領。ケネディ政権の副大統領を務め、ケネディの暗殺の直後に政権を引き継いだ大統領。リベラルとして知られたケネディと対照的に、ジョンソンは民主党の中では保守的な人物として知られたが、公民権運動に対しては深い理解を示し、公民権法の早急な施行に向けて議会をまとめるなど積極的に貢献した。
国内政策の政治力ではフランクリン・ルーズベルトと並ぶ敏腕大統領であり、公民権法の施行を推進し非白色人種の差別是正に貢献したものの、対外的にはベトナム戦争に深く介入し国内の反戦運動の激化と世論の分裂を招いた。
目次 [非表示]
1 生い立ち
2 政治家へ
3 第二次世界大戦
4 上院議員
5 副大統領
6 大統領職
6.1 内閣
6.2 最高裁判所判事
6.3 公民権法
6.4 貧困対策
6.5 ベトナム戦争
7 引退
8 エピソード
9 陰謀論
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク
生い立ち [編集]

リンドン・ベインズ・ジョンソンは1908年8月27日にテキサス州中央部のテキサス・ヒル・カントリーと呼ばれる地域にある農村、ストーンウォールで生まれた。彼の両親サミュエル・ジョンソンとリベカ・ベインズは、貧しい地域で農場を所有しており、彼らには更に4人の子供がいた。妹のリベカ、兄弟のジョセファ、サム・ヒューストン、ルシア。リンドン・ジョンソンは幼年期を通じて公立学校に通い、1924年にジョンソンシティー高校を卒業した。
1927年には、南西テキサス州教員養成大学(現:テキサス州立大学サンマルコス校)に入学した。校内活動や学校新聞の作成に参加し、苦労しながらも1931年に卒業した。なお在学中に1年休学し、テキサス州の貧しいメキシコ系移民の生徒が通う学校で教師(見習い)を務めている。
政治家へ [編集]

ジョンソンは大学を卒業した後、ヒューストン高校で演説および討論を教えた。しかしながらすぐ教職を辞め、父親の力を借りて政治の世界に入った。ジョンソンの父親は、テキサス州議会で5期勤めており、テキサス州選出連邦下院議員サム・レイバーン(後に下院議長)の親しい友人だった。1931年にジョンソンはウェリー・ホプキンス州議会議員の連邦下院議員選挙に協力し、ホプキンスはその労に報いてジョンソンをリチャード・M・ケルバーグに紹介、推薦した。これによりジョンソンはケルバーグの立法秘書官となり、ワシントン立法補佐グループの議長の座を与えられた。
秘書としてのジョンソンは数々の影響力を持つ人々と知り合い、彼らがどのようにその地位に達したか、いかにして尊敬を集めているかといったことを学んだ。またフランクリン・ルーズベルト大統領のまわりで働いていた人達の何人か(例えば副大統領ジョン・ナンス・ガーナー)とは、同じテキサス仲間としてすぐに親しくなった。
秘書在任中、ジョンソンはテキサス出身のクローディア・アルタ・テーラー(レディ・バード・ジョンソンとして知られる)に出会い、数度のデートの後、1934年11月17日に結婚した。ジョンソン夫妻は、2人の娘、リンダ・バード(1944年生)およびルーシー・ベインズ(1947年生)をもうけた。
1935年には、テキサス州立青年局長に就任し、政府が若い人々のために、教育の充実と雇用の拡大をするよう尽力した。その活動によって政治的後援を構築することができた。ジョンソンはとてもタフな上司として部下の間では有名であった。彼は二年間長を務め、議会選挙へ出馬するために辞職した。
1937年にジョンソンはオースティン及び周辺町村を含むテキサス州の第10下院議員選挙区の特別選挙に出馬した。彼は妻の大きな支援を受けながら、ニューディール政策を政治要綱に掲げ、選挙活動を繰り広げた。
ジョンソンの当選後、フランクリン・ルーズヴェルト大統領はこの若いテキサス人への関心を示した。ジョンソンは海軍事務委員会(これは新人議員にとって非常に重要な意味を持つ)に直ちに指定された。彼はまた、主に自分の選挙区において、田舎の電化をはじめとした様々な発展のため奔走した。
1941年にジョンソンは上院の特別選挙に出馬し、現職のテキサス州知事であり、ラジオ・パーソナリティのW・リー・“パピー”オダニエルと議席を争った。この有名な州知事を前にジョンソンは全く歯が立たないと予想されたが、力強い選挙活動を展開し、非公式の開票速報はジョンソンの勝利を報じた。しかし、最終的に両陣営から大規模な不正が発覚し、ジョンソンも落選した。なお選挙運動の終盤において、ジョンソンはもし戦争が始まったら軍隊に志願すると約束していた(程なく1941年12月にアメリカ合衆国は第二次世界大戦に参戦)。
第二次世界大戦 [編集]

第二次世界大戦中にジョンソンは海軍少佐として従軍し、銀星章、アジア太平洋従軍記章および第二次世界大戦戦勝記念章を受章した。しかしながら、戦後ジョンソンの銀星章の受章は政治的な目的による物と推測されている。
1940年6月20日、初の平時の徴兵を定める法案が議会に提案された時、ジョンソン下院議員は自分を海軍予備役として徴兵を免除する約束を取り付けた上で、この法案に同意した。1941年、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦すると、ジェームズ・フォレスタル海軍省次官に自分を非戦闘員として配置するよう求め、テキサスと西海岸の造船所設備の検査役となった。
しかし春ごろになると、テキサスの有権者たちはジョンソンが戦争で活躍することを望んでいたし、また1940年の選挙活動における「もしアメリカ合衆国が参戦したら、前線で戦う」との誓約を実行するよう求める声が高まってきたので、ジョンソンは政府に、より戦闘地帯に近い配置にするよう求めた。ルーズベルト大統領は、南西太平洋地域について、軍の指揮系統を経由することで歪曲される恐れのない、政治家による信頼できる情報を得たいと考えていた。フォレスタルの提案から、ルーズベルトはジョンソンを南西太平洋の偵察チームに配置した。ジョンソンはオーストラリアのメルボルンでダグラス・マッカーサー大将と会合し、第22爆撃隊に所属され、偵察目標はニューギニア島にある大日本帝国海軍のラエ飛行場とされた。司令官は外部の偵察員は必要ないと感じていたが、ジョンソンは必要性を強く主張した。
偵察活動においてジョンソンの搭乗するB-26は日本軍機に攻撃を受ける(このとき彼の乗機B-26を攻撃したのは大空のサムライこと坂井三郎らの所属する台南航空隊零戦隊だったという)。そしてメルボルンに戻り、マッカーサーに報告するや否や、マッカーサーはジョンソンと生き残った偵察員に銀星章(最高位から3番目に位置する勲章)を授与した。
1942年6月9日に、ニューギニア付近のポートモレスビーおよびサラマヌアでの勇気ある行動に関して。南西太平洋地域の情報活動任務の間、ジョンソン少佐は戦闘条件の直接情報を得るために、ニューギニアの敵空域に関する危険な空中戦使命を帯びた観察者として志願した。目標空域に近づくとともに、8機の敵機に遭遇した。この時に、ジョンソン少佐の乗機は機械的問題を生じ、単独での帰還を強いられた。敵機の格好の目標となったが、彼はその危険にもかかわらず冷静さを示した。彼は勇敢な行動により帰還し有益な情報を得ることが出来た。
帰還後、ジョンソンは「我々の軍用機は日本の戦闘機にはるかに劣っていた」「士気は高くなかった」などと喧伝し、海軍に大きな権力を持つ、ジョンソンを会長とした小委員会を議会に承認させた。しかし活動内容は非難を浴び、ルーズベルト大統領は、軍務に就く国会議員をオフィスに戻すことを命じた。また、ジョンソンは解任された。
上院議員 [編集]

1948年にジョンソンは再び上院選に出馬し当選した。さらにこの上院議員選挙も論争になっている。ジョンソンはその圧勝により「地滑りリンドン」と呼ばれた。上院では軍事委員会に指名され、1950年の後半には調査小委員会の結成に貢献した。ジョンソンは結局その議長となり、防衛費と予算効率の多くの調査を行った。これらの調査の結果によりジョンソンは他の議員の尊敬と共に全国的な注目を集めた。
上院議員として数年の活動後に、ジョンソンはリーダーシップを得、1953年には少数党院内総務に選出された。ジョンソンの最初の活動は委員会への選出から年功制を取り除くことであった。1954年にジョンソンは上院議員に再選され、民主党は上院で多数派となりジョンソンは院内総務となった。ジョンソンの任務は立法の予定と民主党支持法案可決の支援であった。
副大統領 [編集]



NASAで演説を行うケネディ(檀上)とジョンソン


南ベトナムのグエン・ゴク・ト副大統領顧問と
ジョンソンの上院における成功は、民主党大統領候補指名へと結びついた。1956年のテキサス州での民主党全国大会でジョンソンは「秘蔵」候補者であった。1960年に民主党大会で彼は409票を得たが、大統領候補の指名はマサチューセッツ州の上院議員、ジョン・F・ケネディに行われた。1960年の終わりにケネディは副大統領候補にジョンソンを指名した。
1960年11月にケネディ=ジョンソンは小差でリチャード・ニクソンおよびヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを打ち破った。しかしこの選挙の際に、ケネディの父親が、関係の深いマフィアに票集めを依頼するなどの大規模な不正を行ったことや、ケネディ本人も義弟のピーター・ローフォードと、その親友のフランク・シナトラを通じて、マフィアのサム・ジアンカーナに選挙協力を依頼していたことが報告されている。
大統領就任宣誓の際ケネディは、大統領雇用機会均等委員会を率いるように、人種差別問題に関心の深いジョンソンを任命した。同委員会でジョンソンは、自分の側近を白人のみでまとめたケネディとは異なり、黒人及び他の少数人種と共に働いた。冷戦下でキューバ危機やベルリン危機などの東側諸国との対立、さらにベトナム情勢の悪化が進む中、副大統領としてジョンソンは更にいくつかの国際的な任務をこなし、それらはジョンソンに国際問題への洞察力を与えた。
ベトナム情勢の悪化が進む中でケネディ政権は、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、ケネディはジョンソンとロバート・マクナマラ国防長官を1961年にベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で、「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」として迅速な支援を訴え[1]、同じくマクナマラ国防長官も、「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し[2]、ケネディ大統領の決定にお墨付きを与えた。
その後ケネディ政権は、アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナムに駐留する「軍事顧問団」を、1961年末にはジュネーヴ協定に違反する規模である3,164人に増加させ、さらに1963年11月には16,263人に増加させた。併せて1962年2月には「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、その規模、内容ともに実質的にはアメリカ軍の正規軍と変わらないものとさせた。さらに1962年5月には南ベトナムとラオスへの支援を目的に、タイ王国内の基地に数百人規模の海兵隊を送ることを決定するなど、ケネディとジョンソン、マクナマラを中心としたケネディ政権の下で、アメリカはベトナム戦争への本格介入へ突き進むこととなった。
副大統領職在任中は、ケネディ兄弟の高い支持率の陰で、概して、ワシントンでは傍流扱いとされ、「外遊用の副大統領 」と揶揄され、酒に依存し抑うつ的であったといわれる。 
大統領職 [編集]



大統領宣誓するジョンソン


ハンフリー副大統領とともに


ラスク国務長官とマクナマラ国防長官とともに


SEATO首脳らとともに
1963年11月22日のケネディ大統領暗殺事件後に、ダラス近郊のラブ・フィールド空港に駐機している大統領専用機・エアフォース・ワン機内で大統領として宣誓した。ジョンソンは一家の友人でもあった連邦判事サラ・T・ヒューズに対して宣誓したが、女性に宣誓した初の大統領であり、また聖書ではなくカトリックのミサ典書に手を置いて宣誓したのも初めてであった。突発的な事情で副大統領職から大統領職に昇格したのは1901年のマッキンリー大統領暗殺事件以来のことであった。 
 ジョンソンの大統領職は就任直後、障害に直面した。ケネディ存命中は、政権のNo.2は司法長官のロバート・ケネディであったため、自身も自己の政治家としての半生が副大統領職どまりと感じていたジョンソンではあったが、ケネディが任命した閣僚の一部(その多くはケネディの個人的な友人でもあった)がジョンソンを尊重せず、忠実に職務に当たらないと判断し、早急な入れ替えを試みた。なお、ケネディ大統領の実弟で司法長官のロバート・ケネディについては、互いに敵意を抱いてはいたものの、必要とし留任させた他、ケネディやジョンソンとともに南ベトナムへの「軍事顧問団」の増強を指揮したマクナマラ国防長官も留任させることになった。
なお、ジョンソンは1964年アメリカ合衆国大統領選挙において共和党のバリー・ゴールドウォーターを大差で破り、改めて選挙で大統領に選ばれ国民からの信任を得た形となった。
内閣 [編集]
職名 氏名 任期
大統領 リンドン・B・ジョンソン 1963–1969
副大統領 ヒューバート・H・ハンフリー 1965–1969
国務長官 ディーン・ラスク 1961–1969
財務長官 C・ダグラス・ディロン 1961–1965
ヘンリー・H・ファウラー 1965–1968
ジョゼフ・W・バー 1968–1969
国防長官 ロバート・マクナマラ 1961–1968
クラーク・M・クリフォード 1968–1969
司法長官 ロバート・ケネディ 1961–1964
ニコラス・デブ・カッツェンバック 1964–1966
ラムゼイ・クラーク 1966–1969
郵政長官 ジョン・A・グロノウスキー 1963–1965
ラリー・オブライエン 1965–1968
W・マーヴィン・ワトソン 1968–1969
内務長官 スチュワート・リー・ユードル 1961–1969
農務長官 オーヴィル・ロスロップ・フリーマン 1961–1969
商務長官 ルーサー・ハートウェル・ホッジス 1961–1965
ジョン・トーマス・コナー 1965–1967
アレクサンダー・ビュエル・トロウブリッジ 1967–1968
キュロス・ロウレット・スミス 1968–1969
労働長官 W・ウィラード・ウィルツ 1962–1967
保健教育福祉長官 アンソニー・ジョセフ・セレブレズ 1962–1965
ジョン・ウィリアム・ガードナー 1965–1968
ウィルバー・ジョセフ・コーエン 1968–1969
住宅都市開発長官 ロバート・クリフトン・ウィーヴァー 1966–1968
ロバート・コールドウェル・ウッド 1969–1969
運輸長官 アラン・スチーブンソン・ボイド 1967–1969

最高裁判所判事 [編集]
エイブ・フォルタ - 1965
サーグッド・マーシャル - 1967
公民権法 [編集]


公民権法施行の文書に署名するジョンソン
「自由で平等な国」を自称して来たアメリカであったが、建国以来200年近くの長きに渡り、アフリカ系アメリカ人などの少数民族に対する法の上での人種差別が認められてきた。しかし、第二次世界大戦中におけるアフリカ系アメリカ人兵士の参戦や、戦後間もない1950年代に入って起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件事件などをきっかけに、この様な法の上での人種差別をなくそうとする公民権運動が全人種の間で盛り上がりを見せてきていた。
この様な動きに対して、人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示したジョンソンは、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、保守(人種差別主義)議員の反対に対して粘り強く議会懐柔策を進めた[3]結果、1964年7月2日に公民権法の制定文書に署名し、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。
貧困対策 [編集]
ジョンソン政権下の1964年に、貧困対策(War on Poverty)を提唱。低所得者に対する公的扶助としてメディケア(医療費の補助)、フードスタンプ(食費の補助)などが制度化された。
ベトナム戦争 [編集]


左からジョンソン、アメリカのウィリアム・ウェストモーランド将軍、南ベトナムのグエン・バン・チュー国家元首とグエン・カオ・キ首相(1966年10月)
ジョンソン政権は、ベトナム戦争に本格介入するきっかけを作ったケネディ前大統領やマクナマラ国防長官が、1963年当時のゴ・ディン・ジェム政権と対立した結果、計画していたと言われる軍事顧問団の縮小政策を実施に移すことができなかった。
1961年副大統領時代にベトコンに手を焼いていたため枯葉剤を散布する決断をし、ゴ・ディン・ジェムもこれに賛成した。ゴ・ディン・ジェムはベトコンの潜む森を知っており、見事に枯葉剤作戦は成功したが、これが後に深刻な問題となる。
1964年に入り、南ベトナムへの魚雷攻撃を行う北ベトナム軍船艇がアメリカ海軍の艦艇に誤爆した。その数日後アメリカ軍は北ベトナムの魚雷攻撃に見せかけたトンキン湾事件をでっち上げて本格介入への口実を作り、さらにその後アメリカ軍基地が爆破され、多くのアメリカ軍将校が爆殺された事にジョンソンが激怒し、報復として北爆を開始した[4]。但し、ジョンソンは当時北ベトナムに軍事顧問団を多数送っていたソビエト連邦や中華人民共和国との関係を考慮して、北ベトナムの基地関連施設に限定した空爆を行うに止めている。ハノイ港にはソ連の輸送船から荷揚げされた兵器もあったが、ジョンソンはそれすら攻撃を行うことはなかった。これはもう一つの超大国と戦争にならないためである。
1965年から1968年までの間、北爆やアメリカ軍兵士の増強などを行い戦争を連続的に拡大していった。それは何万ものアメリカ軍兵士の死と、およそその60倍のベトナム人の死、そして最終的にはアメリカの撤退と南ベトナムの崩壊を招いた
アメリカ兵の戦死者がベトナムで増え、テレビで戦場の模様が放映されるとともにジョンソンの人気は低下した。特に「おい、おい、LBJ、今日は何人の子供を殺した?」などと書いたプラカードを掲げる学生達の抗議に直面し、マスコミからは連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。その後、CBSの人気キャスターであるウォルター・クロンカイトからも参戦への疑問を表明されるにいたり、1968年には北爆の中止を表明するとともに、次の大統領選挙への不出馬を表明することとなった。
引退 [編集]

ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して辛勝したが、ジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明し、同時に世論調査では最低の支持率を記録した。テト攻勢の後の1968年3月31日、ジョンソンは夜のテレビ演説で大統領選で民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由としてベトナム戦争に関する国内世論分裂の拡大を挙げた。
民主党は結局副大統領ヒューバート・ハンフリーを指名したが(ロバート・ケネディは、党大統領候補指名選のキャンペーン中に兄同様、暗殺された。) 、1968年の大統領選では共和党候補のリチャード・M・ニクソンに敗北した。大統領職後の1969年に、ジョンソンはテキサス州ジョンソンシティーの農場へ帰宅した。その後ジョンソンは1973年1月22日に重い心臓発作を起こし死去した。
エピソード [編集]

サインペンが世に広まったのもジョンソンの功績である。大日本文具が「新しいペン」としてサインペンを発売したが、日本では全く売れず、アメリカに活路を求めてサンプルを配布したところ、全く偶然にジョンソンが一本入手。ジョンソンはこのペンを気に入り大量注文。この話が全米に伝わり爆発的に売れ行きが伸び、その勢いが日本に逆輸入されるほどであったという。
ジョンソンの身長は6フィート3と1/2インチ(192cm)であった。これはエイブラハム・リンカーンの6フィート3と3/4インチに継ぐ高さであり、二番目に背の高い大統領であった。
ジョンソンはテキサス州では大物政治家であったが、ワシントンではケネディ兄弟に支持率で大きく水をあけられており、副大統領どまりの地味な政治家といわれていた。
ジョンソンは倹約家で有名だった。大統領としてさえ、ホワイトハウスの録音テープには自らが貧しく巨額の負債があるため、カメラマンに無料で家族のポートレートを撮影してくれるよう頼んでいることが記録されていた。実際には彼は裕福であったが、結局無料で写真を受け取った。ホワイトハウスの記者団は、ホワイトハウスで使われていない部屋の明かりを全て消すという彼の習慣に関する冗談をよく話した。ジョンソンの秘書は、彼が発泡スチロールのコップを洗って再使用していたことを後に明らかにした。
ジョンソンは他人からの評価を非常に気にした。公民権に関する演説後に彼は32人の知人に電話を行い、演説への感想を尋ねた。
ジョンソンの弟子のボビー・ベイカーはラスベガス、シカゴ、ルイジアナなどのマフィアと巨額の取引をしていたという。それでもジョンソンはベイカーのことを「自分が最も信頼する友人の一人」と言っていた。彼はジョンソンが上院院内総務だった頃8年間に渡り秘書を務めた。
ジョンソン大統領図書館建設の際に、完成直前になって急遽彼が「執務室の複製が欲しい」と言い始めた為に、屋上に執務室のレプリカが作成されることになった。しかしながら、面積が足りず実物の10分の8以上の大きさが作成することが出来なかったために、夫人が彼を説得し現在の形になったといわれている。
陰謀論 [編集]

ジョン・F・ケネディの暗殺をジョンソンが首謀していたと主張する陰謀論が存在する。暗殺当時ケネディは個人秘書官イーヴリン・リンカーンを含む親友に、ジョンソンが少なくとも4件の犯罪捜査に関与していたことから1964年の大統領選でジョンソンを入れ替えて別の人物を彼の副大統領候補にすることを考えていたことを語っている。[要出典]
この陰謀説を元に、映画監督オリバー・ストーン は映画『JFK』でジョンソンが、暗殺犯マック・ウォレスを使いケネディ大統領を暗殺した首謀者であると描いた。また2005年11月、ジョンソンの元顧問弁護士バー・マクレランが『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』という本を書き、ジョンソン真犯人説を発表した。
ケネディ暗殺から2時間8分後、大統領専用機エアフォース・ワンの機内で大統領就任式が行われ、夫の血に染まったピンクのスーツを着たままのジャクリーン・ケネディの隣でジョンソンは大統領就任を宣誓した。宣誓を終えたジョンソンは、カメラマンから多くの写真を撮られているが、その中の一枚に、ジョンソンの旧知の友人であるアルバート・トマス下院議員がジョンソンに向かってウインクし、カメラに背を向けたジョンソンの横顔がトマスに笑いかけているように見えるものがあった。この写真は誤解を招くことを懸念して当時は一般に公開されず、後に公開された。
ただし、ジョンソン自身もケネディ暗殺の直後、エアフォース・ワンの機内で暗殺に脅えており[5]、また大統領退任後にCIAによる陰謀の可能性を示唆する等、ジョンソン黒幕説には異論も多い。
【2011/01/10 17:46 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
オリバー・ストーン
ウィリアム・オリヴァー・ストーン(William Oliver Stone、英語発音: /ˈwiljəm ˈɑləvər ˈstoun/ ゥイリャム・アラヴァ・ストウン、1946年9月15日 - )は、アメリカ合衆国の映画監督、映画プロデューサー、脚本家。
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1 経歴
2 人物
3 主な作品
3.1 監督
3.2 製作
3.3 脚本
3.4 自作への出演
4 References
5 External links
経歴 [編集]

ニューヨーク州ニューヨーク市出身。父はユダヤ系で、母はフランス系のカトリック教徒であった。折衷案として米国聖公会で育つ[1][2](しかし、のちに仏教徒となった)。イェール大学で1年間学ぶが、退学して南ベトナムに赴き英語を教えるなどして半年程過ごす。帰国後復学するが、再び辞めている。
1967年から陸軍に従軍し、ベトナム戦争を経験。空挺部隊に所属し、LRRPと呼ばれる偵察隊に加わっていた。この任務は特殊部隊的な側面を持ち、死傷率がもっとも高かった部隊のひとつである。除隊後にニューヨーク大学でマーティン・スコセッシに師事し、映画制作を学んだ。
1974年にホラー映画『邪悪の女王』(日本未公開、原題:Seizure、あるいはQueen of Evil)で長編監督デビュー。脚本を担当した1978年の『ミッドナイト・エクスプレス』で、アカデミー脚本賞を受賞。
『プラトーン』、『7月4日に生まれて』の2作品でアカデミー監督賞を2度受賞している。 その他代表作には『JFK』、『ニクソン』、『天と地』など。ベトナム戦争帰還兵である自身の実体験を生かし、ベトナム戦争とそれが人間に与えた影響を描いた作品が多い。特に『プラトーン』は、自身がベトナム戦争で体験した事がベースになっていると言われ、戦争という異常な状況下で人間はいかに醜く残酷になるか、そしていかに戦争が非人道的なものであるかを痛烈に訴えている。アメリカ国内では好き/嫌いがきっぱりと別れ、特にオリバー・ストーンと同じ世代ではその傾向が顕著である。
人物 [編集]

アメリカ政府やアメリカの政治を批判した作品を多く発表する事で知られ、特に2001年の大統領選の際には、「もしジョージ・ウォーカー・ブッシュ(第43代アメリカ合衆国大統領)が当選すれば、アメリカ国内で大規模なテロが起こる」と公言し、皮肉にもその言葉は現実となった。また、自身監督作映画『JFK』『ニクソン』では、ジョンソン大統領こそケネディ大統領暗殺事件の真犯人であると力説している。しかしブッシュ親子に対しては世界中で陰謀説があるが、ストーンはそのような陰謀説を信じていないと思われる。
2008年5月には現職の大統領であるブッシュ大統領の伝記映画『W.』を製作し、大統領選挙に合わせて10月に全米で公開された。
監督の作品、『JFK』、『天と地』、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』に出演したトミー・リー・ジョーンズと生年月日が一緒である。(1946年9月15日生まれ)
私生活ではトラブルが目立ち1999年に大麻所持で逮捕、2005年にも再び薬物所持と飲酒運転で逮捕されている。
【2011/01/08 18:27 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
メアリー・スティーンバージェン
メアリー・スティーンバージェン(Mary Steenburgen、1953年2月8日 - )はアメリカ合衆国の女優。
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1 来歴
1.1 プライベート
2 主な出演作品
3 外部リンク
来歴 [編集]

アーカンソー州ニューポート出身。
1972年にニューヨークに移り、舞台に出演するようになる。ジャック・ニコルソンによって見出され、彼の監督デビュー作『ゴーイング・サウス』にヒロインとして初出演。1980年の『メルビンとハワード』でアカデミー助演女優賞及びゴールデングローブ賞 助演女優賞を受賞。
プライベート [編集]
『タイム・アフター・タイム』で共演したマルコム・マクダウェルと1980年に結婚したが、1990年に離婚。1995年に俳優のテッド・ダンソンと再婚した。
【2011/01/08 18:26 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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