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飯塚 高史(いいづか たかし、男性、1966年8月2日 - )は、日本のプロレスラー。本名は飯塚 孝之(いいづか たかゆき)。北海道室蘭市出身。新日本プロレス所属。
目次 [非表示] 1 来歴 2 略歴 3 得意技 4 入場テーマ曲 5 タイトル歴 6 脚注 7 関連項目 8 外部リンク 来歴 [編集] 若手時代の1989年、馳浩と共にロシアでコマンドサンボ修行を行っており、グラウンドレスリングの技術力が非常に高く、道場でコーチを務めていた時期もあった。またその技術を買われて、パンクラスのリングでは鈴木みのると「キャッチレスリング」(打撃無しルール)で対戦している。 スリーパーホールドを得意としており、過去に何度もこの技で勝利をあげている。 本人曰く「裏投げとフィッシャーマンズ・スープレックスを併せた」というブリザードを得意としており、技の名前は出身地が北海道であることから、リングアナウンサーの田中秀和が命名したものである。 海外遠征からの帰国時、闘魂三銃士、馳浩、佐々木健介の5人にシングル戦を要求するマイクパフォーマンスをリング上で行い、エル・サムライおよび野上彰との3人で「新世代闘魂トリオ」という形で売り出されたが、希望は即座に通らずに売り出し失敗。併せて本人の性格の地味さもあって、トップグループに割って入ることができなかった。なお健介は後にプロレス雑誌の飯塚との対談で、このシングル戦要求に答えなかった理由を、「同い年の同年デビューなのに、短期サンボ修行、長州力と組んでのIWGPタッグ王座戴冠、ドラゴンボンバーズ、お膳立ての整った海外武者修行という、エリートコースに乗った流れが気に食わなかったから」と述べていた。 この後も、野上彰との「J・J・JACKS」、山崎一夫・永田裕志・木戸修との「山崎隊」など、ユニットの形でチャンスを与えられるが、生かすことは出来ず、「隠れた実力派」と称される中堅選手の位置に甘んじていた。 1999年1月4日、小川直也対橋本真也戦における場外乱闘で、小川のセコンドについていた村上和成に対し、一時昏睡状態に陥るほどのダメージを負わせた張本人とされる(これが原因で、村上は一時執拗に飯塚の首を狙っていた)。 2000年1月4日、橋本とのタッグで小川・村上組と対決。橋本を馬乗りパンチで攻める小川をドロップキックで駆逐するなど大活躍し、最後はスリーパーホールドで村上をKOした。この一戦がきっかけで一躍大ブレイクし、決め技となったスリーパーは前述のように彼の代名詞となった。4月7日にはシングルでも村上からスリーパーで勝利すると、7月20日に健介の持つIWGPヘビー級王座に挑戦。試合には敗れるものの、その後のG1 CLIMAXで永田裕志と大会中ベストバウトと呼ばれる試合を展開。G1タッグリーグ戦では永田と組んで初優勝と、飯塚にとって2000年は非常に実りの多い年であった。 しかし2001年、長井満也との試合で首を負傷し、長期欠場を余儀なくされる。 その後、トップ戦線との関わりは無く光が当たる事はなかったが2008年、復帰したがG・B・H勢に袋だたきに遭った天山広吉を助け、タッグ共闘を持ちかけた。最初は冷たくあしらわれていたが、G・B・Hのイス攻撃から身を挺して天山を守る等の捨て身の救助を行い、気持ちが通じて“友情タッグ”が誕生した。4月27日のIWGPタッグ挑戦の際突如天山を裏切ってG・B・Hとグルになって袋叩きし、長いキャリアで初のヒール転向宣言。これに伴い、頭を坊主にし眉毛も落とし、無口で鋭い眼光の別人の風貌に変わった。 当初は全く喋らないキャラで逆にその不気味さを際立たせていたが、徐々に喋るようになった。のちのインタビューでは「善良だったころの飯塚高史の魂は等々力のほこらに封印した」[1]と語った。 2008年10月13日に天山、2009年4月5日に永田とチェーン・デスマッチで対戦し勝利したが、2009年5月3日に永田とドッグカラー・チェーンデスマッチで、7月20日に天山とチェーン・デスマッチで再戦し敗北。同年のG1 CLIMAXに9年振りの出場を果たすも永田裕志、同ユニットの中邑真輔以外は全てアイアンフィンガー・フロム・ヘルをはめての地獄突きによる反則負けだった。 9月シリーズでは真壁刀義にピンフォール勝ちを3度も取られるという屈辱を味わい、9月27日のメインイベント終了後に真壁を襲撃し両者に因縁が芽生える。さらに11月1日の全試合終了後、菅林直樹社長の接待という事で車に乗り込んだ真壁に対して、持参したバットでテロを起こした。 11月8日にチェーン・デスマッチとして試合が組まれK.O.負けとなったが、その後も襲撃を繰り返し12月5日、再度チェーン・デスマッチで激突するが今度はレフェリーストップを食らいデスマッチ4連敗を喫した。 略歴 [編集] 1986年11月2日、野上彰(現:AKIRA)戦でデビュー。 1993年9月、野上彰とタッグチーム「J・J・JACKS」を結成する。1996年3月に解散。 2005年から2007年まで選手会長を務めた。 得意技 [編集] グラウンドの切れ味は抜群。また、裏投げやブリザードと言ったサンボ仕込みの投げ技も得意。かつてはキレの良いスープレックスの使い手でもあった。また、新日本プロレスの道場長だったこともあり、ドロップキックなどの基本的な技のフォームが美しい。ヒールターン以後は急所攻撃などの各種反則や場外乱闘、殴る、蹴るなど技らしい技はほとんど使用せずに試合を展開している。 スリーパーホールド その攻撃力から「魔性のスリーパー」と呼ばれる。カウンター式でも使われる他、総合格闘技の試合のように足を使っての胴締めと併用して使われたりする。 ブリザード サンボ修行で会得した大技。変形の裏投げで、脇を通して背中に回す腕が相手の足を固めている。秋山準のエクスプロイダーと比較されることが多いが、急角度に落としていく秋山のそれとは違い、飯塚のブリザードは相手を背中から落とし、そのままホールドに持ち込む。最近は投げっ放しを多用する。 裏投げ 相手の正面から組み付き、右腕を相手の首、左手を相手の右脇に差し込んでクラッチし、後ろに反り投げるスープレックス。首のフックを最後まで外さず、ネックブリーカー風にたたきつける。馳浩曰く「横にひっくり返しているだけ」。 飛びつき式腕ひしぎ十字固め 相手の腕または首を掴んだまま飛びついて足を相手の首に絡め、自身は後方へ回転しつつ相手を巻き込んで倒し、腕ひしぎ十字固めへと移行する技。ラリアットに対するカウンターとしても使われる。 ビクトル式膝十字固め 相手の横から首と腕を取り、足を河津掛けのようにからめ、そのまま相手を巻き込みつつ前方回転して膝十字固めに移行する。 アンクルホールド うつぶせの相手のつま先を掴み、そのまま両腕で足首を抱え込むようにして反らしながら締め上げる関節技。 飯塚スペシャル∞ どんな技かは謎。出せば勝てるらしいが、使う気は無いらしい。 地獄突き(アイアンフィンガー・フロム・ヘル装着) アイアンフィンガー・フロム・ヘル(鉄製のグローブ)をはめての地獄突き(G・B・H加入時から使用)。凶器攻撃(反則)の一種なのでレフェリーのブラインドを突いて行われる。なお、アイアンフィンガーを作成したのは平田(マシン)。当初は飯塚の腕を機械に改造したというギミックだったが、いつのまにか単に「飯塚専用の凶器を作成した」ということになった。2009年のG1 CLIMAX以降はさらに大きなアイアンフィンガー(アイアンフィンガー・フロム・ヘル2号と名づけられている)を使用するようになった。 噛み付き攻撃 G・B・H加入後に使用。鉄製のマウスピース(アイアンティース・フロム・ヘル)を使用する場合がある。当然反則行為であるが、試合の流れを大きく変えるぐらいの威力を誇る。 入場テーマ曲 [編集] TERRIBLE AIR against rules(G・B・H加入時から使用) タイトル歴 [編集] IWGPタッグ王座:2回 第10代パートナーは長州力、第27代パートナーは山崎一夫 G1 TAG LEAGUE 優勝(2000年) パートナーは永田裕志 PR |
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カール・アンダーソン(Karl Anderson、1980年1月20日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ノースカロライナ州アシュビル出身。
コール時や試合中にマシンガンを撃つポーズをする。 目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 2.1 やられ技 3 連携技 4 入場テーマ曲 5 獲得タイトル 6 関連項目 7 外部リンク 来歴 [編集] 当時、設立間もなかった新日本プロレスLA道場に入門。プロレスリング・ゲリラ(PWG)、リング・オブ・オナー(ROH)、NWAと米国団体を転戦し活躍。 2008年2月27日、NEW JAPAN CUP(以下NJC)を欠場することになった永田裕志によりクラシカルレスリングの技術を買われ推薦出場する大抜擢を受け来日。3月9日の金本浩二戦で日本デビューを飾る。しかし4月13日、本隊を裏切りG・B・Hに合流。当時のG・B・Hでは初の外国人レスラー入りだった。 2009年1月4日、レッスルキングダムIII IN 東京ドームに初参戦。蝶野正洋、長州力、カート・アングル、ケビン・ナッシュのレジェンド軍と対決したが敗れる。同年3月9日には2年連続でNJC出場。1回戦で後藤洋央紀と対戦。追い詰める場面もいくつか見られたが、最後は変形腕固めで敗れる。 4月に中邑真輔、矢野通が結成した新軍団CHAOSの一員に。ジャイアント・バーナードとのタッグ“BAD INTENTIONS”で4月5日の中西学、大森隆男組と5月3日に行われた天山広吉、小島聡組の試合で見事勝利を挙げ、6月20日、ブラザー・レイ、ブラザー・ディーボンのチーム3Dが所持するIWGPタッグ王座に初挑戦。敗れはしたものの健闘を見せた。 10月中旬に行われたG1 TAG LEAGUEでは全勝でブロック通過し決勝トーナメントへ進出。決勝で田口隆祐、プリンス・デヴィット組を撃破し大会史上初の全戦優勝を果たした。11月8日にチーム3DとIWGPタッグ王座を賭け2度目の対戦。終盤、4人共が場外乱闘を繰り広げ両者リングアウト裁定となった。 2010年1月4日、チーム3D、NO LIMITに混じりIWGPタッグ選手権3WAYマッチに望む。最後はNO LIMITの裕次郎(現・高橋裕二郎)にピンフォール負けを喫し、載冠はならなかった。その後、3月のNJC1回戦では同チームの内藤哲也にスターダストプレスを喰らい敗戦。さらに、シリーズ最終戦の6人タッグマッチ試合後、タッグを組んでいた矢野通から駄目出しを食らってしまい不穏な関係へと発展。そして4月4日、矢野、飯塚高史と組み棚橋弘至、高橋裕二郎、内藤組と対戦。棚橋からフォールを奪われると、矢野から椅子攻撃の制裁を受けCHAOSから追放。そして、試合中に棚橋を相手にせず勝手に2人で試合を進行したNO LIMITはCHAOSと結託した、現在はバーナードと共にしてタッグで活動している。 得意技 [編集] やられっぷりの良さや小気味の良さでその曲者ぶりをいかんなく発揮している。日本では比較的大型選手の類に属するが、その身体能力を活かした軽やかな動きが特徴。 ガン・スタン 現在のフィニッシュ・ホールド。相手の正面に飛びつきながら背中を向けて首を手で抱え込み、尻餅をついて着地することで喉元に自分の肩を食い込ませる。飛び付き式のスタナーといえるがダイヤモンド・カッターの形になることもしばしば。この技に移行する際は電光石火で浴びせるか、相手の死角にまわりこむように待機し、相手が起き上がってアンダーソンと向き合った瞬間に技を浴びせるというWWEのスーパースターであるランディ・オートンのモーションで決めている。 スピニング・スパイン・バスター 主にカウンター式で使う切れ味鋭い投げ技。 アーン・アンダーソンが得意とする型に近い。 ノータッチ・トペ・コン・ヒーロ ヘビー級の選手でありながらノータッチで見舞うという離れ業をやってのける。 ゼロ戦キック カウンター式の他にもコーナーに登ってる相手に対してや、パイプ椅子を相手に持たしておいてから顔面に放つなど様々な形で使用する。 デスバレーボム 米国団体に参戦していた時期に使っていたが、新日本に移籍してからはあまり見られなくなった。 ジャンピングフロントハイキック やられ技 [編集] コーナーへの股間打ちつけ 相手を対角コーナーへハンマースルーした後に攻撃を狙うが、それを回避される。この時「アァー!」と裏声で悲鳴を上げるのが特徴的。 場外へ放り出される 勢いよく相手のもとへ走り出すも、相手に頭を掴まれ放り投げられる。上記の通りに悲鳴を上げることもしばしば見られる。 返り討ち タッグマッチなどで待機中に、不意にパートナーの背中または肩を叩いてやる気満々で相手に挑むも、逆に返り討ちにあう。この後パートナーにタッチを求めるも、無視されることがお約束だった。 ちなみに、返り討ちにされる方法はほとんどが中西学の逆水平チョップである。 連携技 [編集] マジックキラー(バーナードとの連携) ラ・レジスタンスの使うオール・ボワールと同じ。この技でG1 TAG LEAGUEを制覇した。 入場テーマ曲 [編集] Devil's Dance/ Metallica 獲得タイトル [編集] 新日本プロレス G1 TAG LEAGUE 優勝(2009年) IWGPタッグ王座 EWF EWFアメリカン王座 NWA NWAミッドウェスト ハートランド州ヘビー級王座 NWAサウスウエスト 世界タッグチーム王座 NWAUKハンマーロック ブリティッシュコモンウェルスヘビー級王座 |
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マシュー・ブルーム(Matthew Bloom、1974年11月14日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。マサチューセッツ州ピーボディ出身。リングネームAトレイン、アルバート、ジャイアント・バーナードなどで知られる。
WWEに所属していたときは、その背中の毛の濃さから「Shave your Back!(背中を剃れ!)」とのコールを観客から受けることが多かった。現在は体毛は剃っており全身に新たにタトゥーを入れていて、乳首や耳にピアスを付けている。日本でブレイクした元WWEレスラー。 目次 [非表示] 1 来歴 2 リングネーム 3 得意技 4 タイトル歴 5 その他 6 外部リンク 来歴 [編集] 学生時代はピッツバーグ大学でアメリカンフットボールをしていた。卒業後はNFLのサンディエゴ・チャージャーズに入り、その後学校の教師をしていた。そして、プロレスラーになるべくキラー・コワルスキーの道場でトレーニングを始める。 プロレスデビューは1997年。インディ団体を経て1999年にWWF(現WWE)入り。WWFでは2000年に名乗りだした「アルバート」のリングネームを使い出すまで、複数のギミック、リングネームを与えられた。 2000年にテスト、トリッシュ・ストラタスと「T&A」を結成。ダッドリー・ボーイズやAPAなどと抗争していた。 2001年に復活したXパック、ECWから移籍してきたジャスティン・クレディブルとヒールユニット「X-Factor」を結成した。WWF対WCW/ECW連合軍のストーリーの中ではケインからIC王座の奪取に成功した(後にランス・ストームに奪われる)。この時期がWWE所属時のハイライトと言える。また、対連合軍ストーリーが終結した後はスコッティー・2・ホッティとタッグを組み、お茶目な一面を見せていた。 2002年に入り、WWEのテレビ番組分割時はスマックダウン側に属した。またポール・ヘイマンのアイデアでリングネームを「Aトレイン」に変更する。ポール・ヘイマンらのチームに属し、ヒールとして活動した。 この時代、体の小さなクリス・ベノワをはじめとした他のレスラーの引き立て役といった位置づけの試合が多かったが、この頃すでにTVテーピングの試合でキン肉バスターを披露するなど(「見たことのない技」と解説された)、日本のプロレスへの興味を示していた。2004年にはスマックダウンからRAWに移籍したが、まったく活躍しないまま同年11月1日にWWEを解雇された。 WWE解雇後は、リングネームを「ジャイアント・バーナード」として、2005年3月20日に全日本プロレスに登場、VOODOO-MURDERSに加入し、4月のチャンピオン・カーニバルで佐々木健介に圧勝したことで一躍脚光を浴びる。2005年末に新日本プロレスへ移籍し、2006年1月4日の東京ドーム興行にて中西学相手に新日本プロレスでの初試合を行った。また同年5月には第2回ニュージャパン・カップでは永田裕志を破り初優勝しIWGPの挑戦権を獲得した。5月3日福岡国際センターでブロック・レスナーの持つIWGPヘビーのタイトルに挑戦もバーディクトでピンフォール負け。しかし見た目で観客を威圧できるキャラクターと、同時にリング外での優等生ぶりも認められ、8月には正式に新日本プロレスの所属選手となった。 2007年元旦に放送されたビートたけしのお笑いウルトラクイズの『字読みプロレス』コーナーに出演した際には、森三中の(まともでない)お色気攻撃に陥落したり、寝起きのお笑い芸人達(主にカンニング竹山等)を襲撃してお仕置きをしたり、朝御飯のオカズを芸人達に分けるなど、お茶目で可愛らしい一面を見せた。来日当初は典型的な怪物キャラクターとして暴れまわるのが仕事であったが、この頃から試合中でも外見に似合わぬ愛嬌を見せるようになり、また同時に日本人好みの試合技術も身につけたことにより「微笑みの圧殺獣」としてベビーフェイス的な人気を呼ぶようになった。 同年3月11日、愛知県体育館においてトラヴィス・トムコをパートナーに中西学&大森隆男組(ワイルド・チャイルド)を下し、第50代IWGPタッグ王座を獲得。約1年間に渡って5度の防衛戦を制覇し、この間G1 TAG LEAGUEでも優勝するなど、最強外人タッグとして暴れ回った(先発を毎回ジャンケンで決めるのがお約束であった)。このタッグは2008年2月にトムコが新日本離脱を表明し、直後の6度目の防衛戦で敗北するまで続いた。 その後もユニットRISEの一員として中邑真輔らと共闘していたが、同年9月の後楽園ホール大会で突如RISEを離脱してG・B・Hへ加入。これをきっかけに再び本来のヒールレスラーとして活動し始めるも、2009年4月に中邑、矢野らが結成した新ユニットCHAOSのメンバーに。CHAOS加入後はカール・アンダーソンとのタッグチーム“バッド・インテンションズ(BAD INTENTIONS)”として天コジ、ワイルド・チャイルドなど様々なタッグチームを撃破。G1 TAG LEAGUEでは始まって史上初となる全戦全勝という快挙を成し遂げ見事優勝を果たした。 リングネーム [編集] ブルームが名乗ったことがあるリングネーム プリンス・アルバート (Prince Albert) アルバート (Albert) Aトレイン (A-Train) ジャイアント・バーナード (Giant Bernard)(現在も使用中) 得意技 [編集] バーナードボム ラストライド(後述)からのライガーボム。空中で開脚した脚を相手の腕に引っ掛けない場合は、バーナードボムではなくビルディングボムと呼ばれる。 バーナードライバー 新日本移籍後に開発したフィニッシュムーブ。リフトアップからのリバース・パイルドライバー。 ボルドーボム ボルドーボム→ディレーラー→ボルドーボムと技名称を変遷、バルドーボムとも表記。 ネック・ハンギング・ツリーで持ち上げ、そのまま相手を後頭部から叩きつける開脚ボム。 リバース・スプラッシュ バーナードライバー開発以前にボルドーボムと共にフィニッシュ・ホールドとして使用。セカンドロープに上った際に客席を見渡すなど余裕タップリで放つ時もあるが、その時はかわされるなどしてだいたい失敗する。 バイシクル・キック ランニング式の二段蹴り。大型の選手がこういった技を得意とするのは極めて稀である。 トレイン・レック 相手を仰向けに担ぎ上げてジャンプし、肩で相手の腰を破壊する。 スピニング・パンケーキ アルゼンチン・バックブリーカーの体勢からのダイヤモンド・カッター。 ラストライド 変形のパワーボム。 滞空式ダブルアーム・スープレックス 滞空時間が非常に長いダブルアーム・スープレックス、そのため受身が取りづらい。 アルゼンチン・バックブリーカー 両肩上に相手を仰向けに担ぎ上げて、相手の背中を反らせてダメージを与える技。 タイトル歴 [編集] PPW PPWヘビー級王座: 1回 PPWヤングガン王座: 1回 WWF/WWE IC王座 :1回 IWGP IWGPタッグ王座 その他 IZWヘビー級王座: 1回 その他 [編集] ジャイアント・バーナードというリングネームは、かつて大木金太郎の耳を角材でそぎ落としたことで知られるブルート・バーナードの息子ということからつけられたが、これはギミックで実際は血縁関係はない。 試合中も耳や唇、乳首などに付けているピアス・アクセサリ類を外すことはない。そのため中西にアルゼンチン・バックブリーカーを掛けられる時にはいつもネックレスを掴んで持ち上げられる。 プライベートでは元教師の肩書きを持つ温和な人柄で知られており、来日外国人レスラーの日本での世話役なども引き受けるほか、中邑をはじめ日本人レスラーとも親交が深い。趣味は読書、愛犬と遊ぶこと。ちなみに、愛犬の名前は「タナー」。 既婚。週刊プロレスでお宅訪問の取材を受け、プールつきの豪邸に住んでいることが判明。 試合に勝利すると、「イヤァアー!」という叫び声を上げ、喜びをアピールする。 |
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棚橋 弘至(たなはし ひろし、男性、1976年11月13日 - )は、日本のプロレスラー。新日本プロレス所属。岐阜県大垣市出身。現在マセキ芸能社と業務提携。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 キング・オブ・ザ・ヒルズ時代 1.2 刺傷事件からの復帰後 1.3 新闘魂三銃士時代 1.4 新闘魂三銃士以降 1.5 ナルシストキャラ誕生 1.6 悲願のG1初制覇 1.7 低迷 1.8 進化が止まらない王者 1.9 TAJIRIとの抗争 1.10 矢野との因縁 1.11 TAJIRI・KUSHIDAとの共闘 1.12 小島聡の猛攻 2 その他 3 得意技 3.1 フィニッシュ・ホールド 3.2 打撃技 3.3 投げ技 3.4 関節技 3.5 飛び技 3.6 丸め込み技 4 入場テーマ曲 5 決め台詞 6 タイトル歴 6.1 新日本プロレス 6.2 全日本プロレス 6.3 プロレスリング・ノア 6.4 CMLL 6.5 プロレス大賞 7 関連項目 8 外部リンク 来歴 [編集] 岐阜県立大垣西高等学校ではサッカーを経験。1995年に卒業後、一般入試で立命館大学法学部に入学。弁護士の角田龍平とは同級生であった。大学時代は学生プロレスサークルであるプロレス同好会に在籍。現場監督の長州力が学生プロレス嫌いを公言していることから、棚橋自身は従来学生プロレス出身であることを認めてこなかったが、2006年4月に東京スポーツ紙上でレイザーラモンHGと対談した際、自らが学生プロレス出身であることを認めた(サークルの先輩にレイザーラモンRG)。ただし同対談においては、学生時代のリングネームとされている「ターナー・ザ・インサート」と棚橋が同一人物かどうかについては明言を避けている。 三度目の入門テストでようやく合格し、1999年、大学卒業後すぐに新日本プロレスに入門。同年10月10日、真壁伸也(現:真壁刀義)戦でデビュー。 キング・オブ・ザ・ヒルズ時代 [編集] 2001年5月18日、怪我から復帰した同期入門の鈴木健三(後に鈴木健想に改名)と、タッグチーム「キング・オブ・ザ・ヒルズ(略称:KOTH)」を結成。棚橋(タナハシ)と健三(ケンゾウ)で「タナケン」コンビと呼ばれ、ヘビー級のタッグ戦線を盛り上げる(King Of The Hillsは日本語に意訳すれば「お山の大将」である)。 2002年3月14日、鈴木が病気によって再び欠場に入ると、佐々木健介とタッグを結成。5月2日には、東京ドームでスタイナー・ブラザーズ(リック・スタイナー&スコット・スタイナー)と対戦。 同年6月20日、自らに健介、復帰した鈴木とブルー・ウルフを加えた4人で新チーム「SWING-LOWS」を結成。健介がリーダーではあるが、KOTHの発展形と主張し、本隊と一線を画して新日本のトップ獲りを目指す。 しかし10月に健介に新日本退団問題が発生したため、11月3日、SWING-LOWSを解散して新生KOTHを結成。棚橋&鈴木のKOTHにウルフを迎える形での3人組ユニットとなった。このトリオで大会「トライアスロン・サバイバー」にエントリーしたが大会前の公開練習で鈴木が高山善廣とタッグを組みたい意向を示し年内での解散を宣言した。 大会公式戦消化中の11月28日、別れ話のもつれから交際相手であった当時テレビ番組ADの女性にナイフで背中を刺されて重傷を負う。緊急治療を受けて一命を取り留めたものの傷は深く、人体の総血液量(体重のおよそ 1/13(約8%))の約3分の1にあたる1.7リットルの血液を失い、一時は危篤状態に陥ったほどであった。なお、刺された時、棚橋はなんと刺さったナイフもそのままに、スクーターを走らせて病院へ向かったという。 刺傷事件からの復帰後 [編集] 2003年、4月23日にU-30王座(後にU-30無差別級王座に改称)を、6月13日に吉江豊とIWGPタッグ王座を、11月30日に永田裕志とGHCタッグ王座を続けざまに獲得し、12月14日にIWGPタッグ王座から転落するまでの約半月間、3冠王となった。 新闘魂三銃士時代 [編集] U-30無差別級王座長期防衛のさなかの2004年初め頃から、棚橋・中邑真輔・柴田勝頼の3人が「新・闘魂三銃士」と呼ばれるようになる。しかし、当の本人たちはこのことをあまりよく思っていなかった。しかしG1 CLIMAXでは、その全員が決勝トーナメント(ベスト6)へ進出する中、3人中最高の準優勝という成績を残す。 同年12月11日、中邑とのコンビで再びIWGPタッグ王座を獲得。再改称されたIWGP・U-30無差別級王座と合わせて、IWGPの2冠王として君臨する。 2005年1月4日、中邑とのU-30タイトル戦に敗戦。2年近く保持していた王座から転落する。しかし、後に中邑がU-30無差別級王座を封印するもののフロントの意向により撤回、返上と改められ、同年6月に行われた王座決定戦を制して同王座に返り咲く。この後、柴田の退団により新三銃士は消滅した。 新闘魂三銃士以降 [編集] 2005年4月、新設されたトーナメント戦「春のG1」こと第1回NEW JAPAN CUPで優勝。さらに6月に行なわれた「U-30無差別級王座決定リーグ戦」を全勝優勝で突破し第3代U-30無差別級王者となった。7月18日、NOAH東京ドーム大会に参戦。力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも、ドラゴンロケットの三連続失敗などが原因で敗北した。「このままでは新日本に帰れない」と試合後述べるものの、継続してノアには参戦せず、新日本のシリーズにそのまま戻った。 2006年1月、アメリカのプロレス団体TNAに参戦。ちなみにTNA参戦時は“ハイ・フライング・スター”を称され観客に脚光を浴びた。2月19日、第3世代最後の砦とされた永田裕志からドラゴン・スープレックス・ホールドで初のピンフォール勝ち。 ナルシストキャラ誕生 [編集] 5月13日に行われた第1回WRESTLE LANDでは、黒のショートタイツで天性のナルシストぶりとチャラ男ぶりを発揮。いつしかリングの中心で決め台詞である「愛してま〜す」と叫ぶようになり、特異なキャラを確立し今に至っている。 7月17日、札幌でIWGPヘビー級王者ブロック・レスナーとのタイトルマッチを行う予定だったが、契約上のトラブルにより来日不可能となった。それに伴いレスナーから剥奪された王座を競うトーナメントでジャイアント・バーナードに勝利し、優勝。第45代IWGPヘビー級王者となり悲願の初戴冠。8月のG1 CLIMAXでは王者ということもあったので優勝候補とされていたが小島聡、ジャイアント・バーナードに敗れ屈辱の予選落ち。その後10月9日、G1を制覇した天山広吉と対戦。最後は必殺のハイフライフローで3カウントを奪い王者の意地を見せつけた。 同年に行われたG1 TAG LEAGUEでは金本浩二と王者タッグを組み出場初めの2戦で1敗1分という成績で苦しい状況だったが残り2戦を見事勝利で飾る。そして最終日の2位決定戦も勝利を果たし2位で決勝トーナメントへ進出。その後Bブロック1位通過の永田裕志、飯塚高史組にも勝利を収めるが、決勝戦で蝶野正洋、中邑真輔組に破れ準優勝で終わる。12月10日、2度目の王座防衛戦でライバル中邑真輔と激突。激しい攻防戦の中、最後は棚橋がドラゴン・スープレックス・ホールドで勝利し、2度目の防衛成功。 2007年1月4日、新日本プロレス、全日本プロレスの両団体の誕生35周年を記念した共同開催のレッスルキングダム IN 東京ドームではダブルメインイベントに出場し、王道最後の継承者太陽ケアとIWGP王座を賭け対戦。闘魂対王道の一騎打ちの最後は棚橋がハイ・フライ・フローで勝利し、3度目の防衛成功。 2月18日、金本浩二がIWGPに初挑戦。ウェイトアップを果たした棚橋がドラゴン・スープレックス・ホールドで勝利し、4度目の防衛成功したが4月13日のタイトルマッチでNEW JAPAN CUPを制した永田裕志にバックドロップホールドでピンフォールを奪われ5度目の防衛に失敗し王座陥落。試合翌日長州から休養を勧告されたと明かした。(右膝内足靭帯損傷のため。その後欠場) 悲願のG1初制覇 [編集] 8月3日、初のオフィシャル本『オレはプロレスラー』(カンゼン刊)が発売。日々の生活をセキララに綴っている。同月行われたG1 CLIMAXにも参戦。2勝1敗2分という成績で2位通過。Aブロック1位で通過した真壁刀義をも退け決勝へ進出。そして王座を奪われた永田裕志を破り悲願の初制覇。約2か月後の10月8日、G1覇者としてIWGP王者永田裕志と激突。30分を超える激闘を繰り広げ見事IWGPヘビー級王座を奪還。さらに後日の記者会見で結婚していたことを告白。 10月に2年連続で金本浩二と組みG1 TAG LEAGUEへ出場。今度こそ優勝というファンの期待もあったがまたもや準優勝で終わる。11月11日、8月末にメキシコ遠征から帰国した後藤洋央紀が初挑戦。文字通りの壮絶な死闘を制し、最後は奥の手であるテキサスクローバーホールドで薄氷の勝利を収め初防衛に成功。新時代の幕開けを告げる一世一代の大勝負となった。 2008年1月4日東京ドーム大会で行われたIWGPヘビー級選手権試合で宿命のライバル中邑真輔と6回目の一騎打ち。両者の容赦ないせめぎ合いを繰り広げたが最後はランドスライドで敗れ、2度目の防衛に失敗。2月17日、2年前のTNA参戦時にも対戦し敗れたAJスタイルズを相手にハイフライフローでリベンジを果たした。 3月1日、全日本プロレスに参戦し元付き人だった武藤敬司とタッグを結成。川田利明、太陽ケア組に勝利。メインイベントの三冠ヘビー級選手権試合終了後チャンピオン・カーニバルに参戦を表明し出場が決定。新日本ではジャイアント・バーナードを下し、3年振り2度目のNEW JAPAN CUP優勝。後日30日にNEW JAPAN CUP優勝者に与えられる権利で、IWGPヘビー級王者中邑真輔へ挑戦するが、王座奪回に失敗。 低迷 [編集] 4月に開催された全日本プロレス春の祭典、チャンピオン・カーニバルに出場。初戦を勝利で収め順調なスタートかと思った矢先に8日の後楽園大会の川田利明戦で、ハイフライフローを放った際、左ひざをマットで強打。この衝撃が原因で「走れない。階段を上り下りできない」という激痛に悩まされ始め、その後は痛み止めの注射を打ちながら出場を続けていたという。痛みに耐えながら優勝決定戦までコマを進めるも、諏訪魔にラストライドからピンフォールを奪われ優勝を逃す。さらに怪我が悪化し、「左膝前十字靭帯断裂」および「外側半月板断裂」という大怪我を負い欠場。 8月のG1 CLIMAXで復帰を果たすも、昨年の優勝者とは思えない散々たる結果に終わり予選落ち。その後のシリーズでもさしたる活躍も無く、話題から遠のいた存在となり、さらにIWGPヘビー級王座を全日本プロレスの武藤敬司に奪われた中でも、次期挑戦者としてリストアップすらされなかった。そんなスランプの中、この状況を打開すべく10月26日に無期限TNA遠征のため、アメリカへ飛び立つ。公式サイトにて“【不定期連載】ハイフライング・スター、絶賛アメリカ遠征中!”というタイトルで遠征先での状況を掲載していった。 進化が止まらない王者 [編集] 2009年1月4日、東京ドーム大会で3年連続メインイベントに抜擢。IWGPヘビー級選手権試合で武藤敬司を下し王座奪還。第50代IWGPヘビー級王者となり、武藤越えを果たした。2月15日には永遠のライバル中邑真輔と8度目の対戦。真のエース決定戦と称された戦いを制し初防衛に成功。さらに4月5日に世界最高峰の挑戦者カート・アングルを退け2度目の防衛。この試合後に「俺の進化が止まんねぇ〜」と自画自賛するほど勢いづいていた。 5月3日にNEW JAPAN CUP覇者の後藤洋央紀と対戦し3度目の防衛に成功したが、3日後に行われたタイトルマッチで中西学に敗れ王座を失うも6月20日、大阪府立体育会館で中西学とリターンマッチ。30分以上の戦いを制し第52代IWGPヘビー級王者へと返り咲きになった。 TAJIRIとの抗争 [編集] 7月20日、王者として北海道へ3年ぶり凱旋を果たし初防衛戦を行う。相手は“ノアの壊し屋”と称された杉浦貴。ハードヒットなファイトを展開し追い詰められた場面がいくつか見られるも最後は投げっ放しドラゴン・スープレックスからのハイフライフローという必殺フルコースで防衛成功。ところが試合後、この日試合の観戦に来ていたTAJIRIが突如乱入。棚橋にグリーンミストを吹きかけると足早に退散。両者に遺恨が芽生えた。その後8月13日のG1 CLIMAX 2009公式戦でTAJIRIと対戦。ラフ殺法とトリッキーな動きに惑わされるも何とか保った棚橋だったが最後はグリーンミストからのバズソーキックで轟沈した。 8月16日、G1 CLIMAX 2009準決勝戦にて、ライバル中邑真輔と対戦。しかし試合中、中邑が放ったハイキックのあたりが悪かったのか試合に敗戦しその試合後病院に直行。後日、眼窩内側壁骨折と診断され全治1か月とIWGPヘビー級王座を返上した。また、返上したベルトはG1優勝者真壁刀義と準優勝者中邑が王者決定戦で激突。これに中邑が勝利し第53代IWGPヘビー級王者となった。 11月8日、欠場に送り出され新王者となった中邑真輔とベルトを賭け対決。いつものナルシストぶりを捨てて挑んだものの、最後はボマイェで敗北を喫した。試合後にTAJIRIに「100年に1人のダメ人間」と吐き捨てられた上にグリーンミストを噴射されたことから両者の因縁が再び勃発。 11月23日に後藤洋央紀と組み、TAJIRI、田中将斗組と対戦。棚橋はTAJIRI、後藤は田中とそれぞれシングルで負けているので両者にとっては絶対に負けられない試合。最後は棚橋がTAJIRIからハイフライフローでピンフォール勝ち。G1参戦以降ピンフォール負けを許さなかったTAJIRIについに勝利をもぎ取る。その後は立て続けにTAJIRIにフォール負けを喫するも12月5日、シングルマッチで再び激突し、実況席にいた山崎一夫や社長の菅林を巻き込む形になるも最後はハイフライフローで勝利を収めた。 矢野との因縁 [編集] 2010年1月4日、プロレスリング・ノアの対抗戦に出陣し、潮崎豪と対戦。20分近くに及ぶ激闘の末、勝利を収めた。1月22日の全試合終了後、矢野通が襲撃したことから、因縁が勃発。2月14日に矢野とのシングルマッチに望みこれに辛勝。試合後、持参していたハサミで矢野の髪を切ろうとするが、田中将斗に阻止され、逆に髪を切られるという屈辱を受けた。 2月28日、グリコ・パワープロダクション・ドリームマッチのメインイベントに出場。武藤敬司、パワプロ仮面と組んで、ボノ・ウォリアー、ピンク・ウォリアー、ポーク・ウォリアーと対戦し勝利。 3月のNEW JAPAN CUPには1回戦でCMLLのストロングマンと激突。その圧倒的なパワーに苦しめられるも、最後は丸め込みで2回戦に進出。ところが、シリーズ中に左膝を負傷。後日の検査の結果、変形性膝関節症および外側半月板断裂の疑いありと診断されたが、そのまま続行で参戦。だが、やはりトーナメントでは本領発揮にはいかず、内藤哲也に敗北を喫した。 5月3日にさらに悪化した遺恨を清算すべく矢野通と再戦。この試合に敗れ去った後、矢野がバリカンを持ち出し襲撃されるも間一髪で阻止。試合後のコメントで「髪を賭けてもう一回だ」と強く再戦を申し出た。 5月5日よりCMLLからの熱烈なオファーに応じる形で遠征に出発。5月7日にタイチ、OKUMURAと組んで、ラ・マスカラ、イホ・デル・ファンタズマ、エクトール・ガルサ組とCMLL世界トリオ王座を賭けて対決。これに勝利し同王座に載冠を果たした。また、遠征先では普段のベビーフェイスを封印し、ヒールキャラを演じている。 TAJIRI・KUSHIDAとの共闘 [編集] 6月19日、ルーザー・ボールド・ルールで完全決着を果たすべく矢野と3度目の対戦。最後は回転十字架固めで矢野からピンフォールを奪い取り勝利を飾った。試合後、矢野は潔くマットに跪くも急所パンチを喰らいまたもやピンチに陥り、後から入ってきた飯塚高史に羽交い絞めにされる。ここでKUSHIDAが救援に駆けつけるも逆に返り討ちに合いとうとう成す術が無くなった時、かつて敵対していたTAJIRIが救出し2人を蹴散らす。TAJIRIが矢野を羽交い絞めにする中、ようやく矢野の髪の毛を刈ることに成功。後にTAJIRIと握手を交わしKUSHIDAを伴いながら退場していった。また、同年のG1タッグリーグにTAJIRIとペアを組んで参戦した。 小島聡の猛攻 [編集] 2010年8月に開催されたG1 CLIMAX XXに出場し、Aブロック1位になって決勝戦進出、フリーとして復帰したBブロック1位の小島聡と対戦。グラウンドドラゴンスクリューを駆使して小島のラリアットを封じようとするも、小島必殺のウエスタンラリアットで沈んでしまい、準優勝で終わった。 その後、小島は当時IWGP王者だった真壁刀義からベルトを奪取。翌、内藤哲也と対戦した小島の元に、小島から対戦相手として指名された中邑真輔、新日プロレス社長が指名した後藤洋央紀、リマッチしにやってきた真壁と共にIWGP戦の申し出る。しかし、小島の中邑との対戦への頑なな執着心と、指名された中邑が承諾しなかった為、後藤と共に振り回される羽目になる。そんな中、小島は同期の金本浩二と激しい同窓会を展開し、CHAOSの石井智宏、高橋裕二郎、飯塚高史、矢野通の包囲網までも突破する。12月に小島がようやく承諾した中邑からベルトを防衛した直後に乱入、小島に挑戦者宣言をしたことで翌年2011年1月のレッスルキングダムでのIWGP選手権試合に出場することが決まった。 その他 [編集] 大の中日ドラゴンズファンとして知られている。 鍛えられた肉体を誇り、精悍な顔つきから女性ファンが多い。しかしながら試合内容で納得させられない時期が続き会場でファンにブーイングが少なからず飛んでいた。がそれを逆手に取り、ナルシスト的で嫌味な部分を更に露骨に出す等としてベビーの立場にいながら新しいヒールキャラとして振舞っている。最近ではそのキャラが認知され始めてきており、女性だけでなく男性ファンにも認められるほどの実力が備わってきた。また、「愛してま〜す!!」(後に記述あり)の決め台詞を共に叫ぶファンも見受けられるようになってきたほどである。 上記のヒール像が確立された頃から、相手の攻撃を徹底的に受ける試合スタイルへと変化し評価も高まった。2007年11月11日の後藤洋央紀戦はその年のベストバウト候補にあげられるほどの試合内容であった。 2008年以降は試合内容が安定するようになり、名実ともに新日本のエースと言うにふさわしい存在となった。本人も「自分がエースだ」と発言している。 鈴木健三が不動のタッグパートナーだったが、2003年鈴木がWJプロレスへ転出すると、様々な選手とコンビを組むようになる。4月28日と6月13日に蝶野正洋&天山広吉のIWGPタッグ王座に連続挑戦した同世代の吉江とは強い絆で結ばれているのかと思いきや、プロレスリング・ノアへの参戦時には吉江ではなく先輩の永田と組んで出陣。そこでも見事GHCタッグ王座獲得を果たし、新日本では吉江と、ノアでは永田とタッグ王者に就いているという状態になってしまう。事件後の療養から復帰した後だっただけに一部から「ここでも二股か」と揶揄された。両王座からの転落後の2004年12月11日には、中邑と組んで王座決定戦に勝利しIWGPタッグ王座に返り咲く。今後は新三銃士の同志・中邑とのチームに専念するのかと思われたが、2005年1月16日にまたもやIWGPタッグ王者のまま、吉江とのコンビを復活させて全日本プロレスへ出向き世界タッグ王座決定戦を戦った。 2005年から「週刊プロレス」で、「ドラゴンノート」を隔週連載している。内容は「タナ番」と呼ばれる番記者とのトークで、棚橋自身が新日本プロレス入門以前からの週刊プロレスの愛読者であるため、フリーライターのマコ・スガワールの口癖である「ひどいよ!!」を決め台詞としている。 マクドナルドのCMに中邑真輔と共に出演していた。その後、マスコミに対してのコメントで「新日本プロレスのマッチメイクはファーストフード化している」とファーストフードを否定的比喩として用いた。 覆面レスラー魔界二号として参戦していた九州プロレスの筑前りょう太と髪の毛とマスクをかけて対決し、勝利した。 井上亘・柴田勝頼・鈴木健想とは同期だが普段は彼らのことを「さん」付けで呼んでいる(井上・健想は年上で、柴田は年下)。 観客動員数が惨憺たる興行後、「なんでプロレスの面白さが伝わらないんだろう。逆に言えば、お客さんは会場まで何を見に来てるんだろうって」、「久しぶりですね、こんなお葬式みたいな試合したの」といった発言が報道がされた。棚橋の目標のひとりである武藤敬司であれば観客数の少ない興行であっても、印象を残す試合が出来たはずであり、いかにすれば棚橋も盛り上げられるのだろうかと自問するコメントも出している。 上記の様に、武藤や藤波の名を多く出す。IWGP王座にめぐっては橋本真也の名前も出している。 かつては白を基調としたロングタイツを着用していた。また、単発興行「レッスルランド」では、黒のショートタイツを着用する。興行中で流されるVTRは棚橋の股間を強調し、インタビュアーもそれに準じた激励をしていた。現在では黒のロングタイツで試合を行うことが多い。 『愛してまーす!』というマイクパフォーマンスを行う。本来は、新日本プロレスが離脱者の続出やベルト持ち逃げ問題などで長く低迷していた時期に、会社の将来を担う立場から「俺は新日本プロレスを愛しています」という意味での発言だった。 2007年10月9日、新日本プロレスの事務所で開かれた記者会見において、2003年に結婚しており、3歳の長女と2歳の長男がいることを公表した。2002年11月の刺傷事件で公表するタイミングを逃していたが、ケジメをとって公表した。2008年のTNA遠征中に子供へのプレゼントを探す様子から家族想いな面も見られる。 2007年11月9日に放送されたテレビ朝日系のドラマ『モップガール』に、バッティングセンターで北川景子が演じる主人公の桃子と居合わすシーンに本人役で出演した。 2009年5月20日、棚橋自身初のJリーグ観戦。笠松運動公園陸上競技場にて、水戸ホーリーホックのユニフォームを着て、水戸ホーリーホックVSコンサドーレ札幌を観戦した。 得意技 [編集] 藤波辰爾や武藤敬司の影響を受けた技が多い、これら以外にもクイック技を好んで使う。 フィニッシュ・ホールド [編集] ハイフライフロー いわゆるフロッグスプラッシュ。2006年のG1から使用。現在のフィニッシュムーブ。このワザに移行する際はスリング・ブレイドで倒してから移行する場合が多い。最近ではうつ伏せになった相手の背中に放つバージョンや、あお向けの相手の膝めがけて放つバージョン、(この後にテキサスクローバーホールドでギブアップを狙う)、IWGPの防衛戦で立っている状態のカート・アングルにも使用した。ちなみに過去に、TNAでこの技を使ったときには、「エディ・ゲレロ以来の名手だ。」と、関係者から高い評価を得たこともある。 ドラゴン・スープレックス・ホールド ハイフライフローと並ぶフィニッシュムーブ。ナルシストキャラ確立後は、ハイフライフローを習得したこともあり使用頻度は減ったが、いまだに説得力のある必殺技として大事な場面で用いられている。 打撃技 [編集] 太陽ブロー 左のボディブロー。名城信男との合同トレーニングを経て使用。主に相手の打撃攻撃に合わせてカウンターで放つ。 ドラゴン式張り手 藤波式のモーションが小さい張り手。 フライング・フォーアーム 助走をつけて、体を横に流しつつジャンピングエルボーを繰り出す。 エルボー・スマッシュ 鍵型に曲げた腕の先端部もしくは少し前側の腕の部分を、斜め下方から上方へ向けてかち上げるように振り上げ、相手に叩きつけるエルボー。 ドロップキック 元々、若手のころから正面飛び式のを使っていたが、ここ最近はそれ以外に、足殺しの一貫として、低空式も使用している。 青天井エルボー・ドロップ 尊敬する武藤敬司のフラッシングエルボーに影響を受けた技。その場で高くジャンプし、両足をジタバタさせながら放つ。現在の武藤のものよりも、若手時代のフォームに近い。 投げ技 [編集] スリング・ブレイド 以前のフィニッシュムーブ。旋回式のフライング・ネックブリーカー・ドロップ。相手の前方から飛びつき、スリーパーホールドの様に相手の頭を抱えてリングに叩き付ける。完全なオリジナルではなく、棚橋が開発する前からDRAGON GATEの吉野正人が繋ぎ技として使っていた。 フライング・スリング・ブレイド トップロープから相手に飛びついてのスリング・ブレイド。一度リングに足から着地した後に、再度その場で小さく飛び跳ねてから叩きつけることが特徴。2006年6月頃から使用していたが同じ年のG1でいずれもこの技を切り返されて2敗を喫している。それ以来ほとんど使用していない。 ドラゴンスイング ドラゴン・スリーパーの体勢から相手の体を持ち上げ、ジャイアントスイングのような形で振り回した後にバスターやファイナルカットでリングに叩き付ける。 ドラゴンスクリュー 元々若手のころから使用していたが、2009年1月4日の武藤戦以降から、足攻めのために多用するようになった技。棚橋には相手がグラウンド状態で放つグラウンドでのドラゴンスクリューと張り手を見舞ったあとにする新型ドラゴンスクリューが存在する。 グラウンドドラゴンスクリュー 棚橋のオリジナル技。その名の通りグラウンドで行うドラゴンスクリュー。2007年4月13日の永田裕志戦で初公開。他にも相手の足をロープに挟んでからのドラゴンスクリュー、腕へのドラゴンスクリューなどバリエーションは多い。 ジャーマン・スープレックス 若手時代にはよく使っていたが、現在は稀に使用している技である。棚橋の出身地・岐阜県に引っ掛けて「金華山ジャーマン」とも呼ばれていた。 ダルマ式ジャーマン・スープレックス 通常のジャーマン・スープレックスとは異なり、クラッチ時に相手の両腕を取り、後方に投げる。両腕がロックされているため受身が取れなく、頭から突き刺さるしか無い危険な技。棚橋は基本的にフルネルソンの状態から相手が強引に解除した時に即座に両腕をとってから仕掛ける。また、この技はシングルマッチや大一番などで好んで使用している。 オールアウト 相手をブロックバスターの要領で抱えあげたあと上半身を右方向に軽く捻り、上半身を左方向へと振ると同時に股を抱えていた右腕を離す。そのあと抱えた首を支点にして相手の体を振り子のように左方向へと旋回させ、ロック・ボトムの形で相手をマットに叩きつける。 裏投げ 側面から相手の脇下へ頭を潜り込ませるようにして組み付き、片腕で首の付け根あたりを、もう片方の腕で腰を抱え、後方に体を捻りながら投げる技である。元々は柔道の投げ技の一つである。 ハーフハッチスープレックス フロントヘッドロックの体勢で相手を捕らえ、空いた方の腕を相手の脇下を通した状態で、後方に反り投げる。若手時代によく用いられていたが、最近ではほとんど見られない。 変型ファルコンアロー ブレーンバスターではなくキャプチュードの体勢で相手を抱え、ファルコンアロー(もしくはみちのくドライバーII)のように首から背中に掛けて相手を落とす。主にビッグマッチで見られる。ハイフライフローへの繋ぎとして使用している。 関節技 [編集] テキサスクローバーホールド 2007年のIWGPヘビー級選手権試合後藤洋央紀戦でフィニッシュ・ホールドとして使用、その後AJスタイルズ戦でも使用し、頻度が増えている関節技。決して派手ではない部類の技ながら、説得力のある角度でフィニッシュムーブのひとつに昇華しつつある。 ドラゴン・スリーパー この体勢からの移行する技や、ドラゴン・スリーパー自体の変形verも色々開発している。 足4の字固め この技も武藤敬司とのIWGP戦以降、足殺しの一貫として、時折使用している。 飛び技 [編集] ドラゴン・ロケット リング上からリング場外にいる相手に向かって助走し、頭部や肩口などの正面から突っ込んで体当たりする技。藤波がこの技を使用する際にドラゴン殺法の一環として「ドラゴン・ロケット」と呼ばれていた。棚橋も藤波への尊敬からその名称で使用している。 サマーソルトドロップ(サンセットフリップ) 前方回転し、背中から相手に体当たりする技。ダウンした相手にその場で、コーナーポスト上から、エプロンから助走をつけ場外へと、使用範囲が広い。その場のものは錐揉み式のフォームで、ムーンサルトのような形になることも多い。コーナーポスト上では両腕を広げるアピールをしてから放つ。 丸め込み技 [編集] 電光石火 ランニングしての首固め。現在はなかなか使用することがないが、時折、相手の打撃攻撃に合わせて、仕掛けることがある。 フォールインラブ いわゆる前方回転エビ固め。主に大型選手へのフィニッシュとなりやすい技である。現に、ここ最近のジャイアント・バーナードへのフィニッシュ技になっているのはすべてこれである。 スリングブレイドル スリング・ブレイドからすばやく回転十字固めを決める技。 入場テーマ曲 [編集] HIGH ENERGY DO IT MYSELF / SUPER STUPID(旧入場曲、現在はWRESTLE LANDで使用) STRANGE(旧入場曲) 決め台詞 [編集] 「○○(新日本プロレスファン、開催地名など)の皆さん、愛してま〜す」 自分がピンフォール勝ちやギブアップなどを奪い勝利した際に言う台詞。当初はメインイベントやタイトルマッチのみ発言したが徐々に発言の機会を増やしていった。 近年ではマイク無しでポーズのみ決めるサイレントバージョンが存在する。 「俺の進化が止まんねぇ〜」 「100年に1人の逸材、棚橋弘至です!」 自己紹介の際。 「まぁ俺のカッコ良さは反則だけど」 反則攻撃を喰らった後、文句を言ってからの捨て台詞。 また、セリフではないが入場時にエアギターをすることがある。 タイトル歴 [編集] 新日本プロレス [編集] IWGP U-30無差別級王座:2回(初代、3代) IWGPタッグ王座:2回(第44代、第47代) 第44代パートナーは吉江豊、第47代パートナー中邑真輔。 IWGPヘビー級王座:4回(第45代、47代、50代、52代) G1 CLIMAX優勝(2007年) NEW JAPAN CUP優勝:2回(2005年、2008年) 全日本プロレス [編集] チャンピオン・カーニバル準優勝(2008年) プロレスリング・ノア [編集] GHCタッグ王座(第7代) パートナーは永田裕志。 CMLL [編集] CMLL世界トリオ王座 パートナーはタイチ・OKUMURA。 プロレス大賞 [編集] 2007年度プロレス大賞 殊勲賞 2009年度プロレス大賞 最優秀選手賞 |
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小島 聡(こじま さとし、男性、1970年9月14日 - )は、日本のプロレスラー。東京都江東区出身。血液型A型。
オレンジを基調としたコスチュームがトレードマーク。VOODOO-MURDERSに加入していた時期は、黒と赤を基調としたコスチュームがトレードマークだった。 目次 [非表示] 1 来歴 1.1 新日本プロレス 1.2 全日本プロレス 1.3 天コジ復活、「F4」結成 1.4 全日本プロレス退団後 2 獲得タイトル歴 2.1 新日本プロレス 2.2 全日本プロレス 2.3 MLW 2.4 ZERO-ONE 2.5 プロレス大賞 3 得意技 4 入場曲 5 エピソード 6 関連項目 7 外部リンク 来歴 [編集] 新日本プロレス [編集] 学生時代に格闘技のバックボーンを持たず(柔道経験があるが特に大きな記録は持っていない)、一度はノーリツに就職したものの退職し、アニマル浜口ジムでトレーニングを積み、1991年2月に新日本プロレスに入門した。 同年7月、山本広吉(現天山広吉)戦でデビュー。1994年、ヤングライオン杯で全勝優勝を飾り、海外遠征に出発。1996年に凱旋帰国、中西学とブル・パワーズを結成しIWGPタッグ王座を獲得するなど活躍する。 怪我で長期欠場していた復帰後の1998年に武藤敬司に誘われnWo JAPANに加入、ヒールに転向する。体格やファイトスタイルが重複していた天山広吉とタッグを組む機会が増え、「天コジタッグ」として知られる。その後nWoが蝶野正洋率いるTEAM 2000に吸収されるとIWGPタッグ王座を当時の最高記録である6度の防衛を果たすなど名タッグとして活躍。 しかし武藤に追随する形で2002年1月31日に新日本プロレスを離脱、同年2月26日に全日本プロレスに入団した。 全日本プロレス [編集] 全日本に入団後、2003年は火祭り、チャンピオン・カーニバル初制覇、世界最強タッグ決定リーグ戦優勝など、数々の実績を残している。また、愚零斗孤士なるキャラに扮したり、A BATHING APEとのコラボレーションによる『BAPE STA!! PROWRESTLING ZEPPTOUR』をプロデュースし、興行を成功させている。同興行ではグレート・コスケなる覆面レスラーに扮している。2004年には、ハッスルに参戦、7月にはプロレスリング・ノアの東京ドーム大会で試合を終えた三沢光晴に対戦を直訴し、古巣に呼び寄せる形でシングルマッチが実現したが敗れた。 2005年2月16日、東京・代々木競技場第二体育館で川田利明を破り悲願の第33代三冠ヘビー級王者に就く。これにより小島が平成デビューの選手で初めての三冠王者となる(3大メジャーで三冠王座のみここまで平成デビューの王者が誕生しなかった)。この試合で川田が約16年間続けてきた平成デビューの日本人選手相手のシングル無敗記録も打ち破る。その4日後、新日本プロレスのIWGPとのWタイトルマッチで、59分45秒の激戦の末、脱水症状を起こした天山広吉を下して第41代IWGPヘビー級王者となり、全日本と新日本の至宝のタイトルを独占した。試合後には、IWGPベルトをリングに投げ捨てるなどの過激な挑発を行い、新日本勢を大いにヒートアップさせた。同年5月14日に陥落するまでの間、一度もIWGPベルトを巻かなかった。その理由として「新日本に居たときは喉から手が出るほど手にしたかったIWGPだけど、今の俺は全日本プロレスの小島聡だから」と理由を述べている(後に巻いておけばよかったかもと多少後悔している)。なお、四冠王者である間にターザン後藤一派の清水大会でターザン後藤&清水の画伯と対戦している。 四冠王者(三冠+IWGP)を奪取したことと、川田利明、武藤敬司、佐々木健介らを撃破して三冠を防衛した実績を評価され、2005年度のプロレス大賞MVPを獲得。授賞式の席では、話題賞を受賞したインリン様から挑発を受け、まんざらでもない様子を見せていた。 2006年は、「チャレンジする王者」を目標に掲げていた。プロレス大賞受賞直後に2005年12月29日ビッグマウス・ラウド第2回興行で柴田勝頼からの対戦要求に応えたことや、VOODOO-MURDERSのTARUの三冠挑戦を受諾したこと(いずれも小島が勝利)、HGの直訴を快諾してのハッスル・エイド2006の参戦はその表れと言えるだろう。7月3日太陽ケアに三冠ヘビー級王座は奪われてしまったが、新日本のG1 CLIMAXへ5年ぶりに出場し準優勝。8月28日にはアパッチプロレス軍で「ストリートファイト有刺鉄線ボードデスマッチ」という試合形式のデスマッチにも挑戦。9月17日世界Jr王者近藤修司とシングルで対戦し勝利を収めた。年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦では天山広吉とのタッグ「天コジ」を復活させ、優勝決定戦で諏訪魔、RO'Z組と対戦し最後は小島がRO'Zをラリアットで沈め勝利し優勝を果たした。 2007年2月17日の東京・両国国技館大会で鈴木みのるの三冠ヘビー級に挑戦するも、みのるの胴絞めスリーパーホールドで意識を失いピンフォール負けを喫した。7か月ぶりの三冠王者返り咲きには至らなかった。3月、武藤敬司不在のシリーズ「2007全日本プロレスEX」では、全大会を通じてメインに出場した。4月、5月シリーズはチャンピオン・カーニバルの結果から苦悩の日々が続き、その状態を利用してかTARUが小島にVOODOO-MURDERSへの入団を勧誘する。その勧誘に迷うが、吹っ切れて6月24日後楽園大会の第5試合終了後に、T28と真田聖也の若手コンビとユニット・AJFを結成し、新たに再出発を図ることを発表する。しかし、メイン終了後にまさかの裏切り。VOODOO-MURDERS入りを宣言し、全日移籍から初めてヒールとして活動することになった。 その後はヒールとしてリング上で武藤、健介を痛めつけており、全日のメインレフェリーの和田京平レフェリーにも暴行を加える。太陽ケアにいたってはイスで顔面を殴り、上顎を骨折させ欠場を余儀なくさせた。このことに対して、離脱後に自身のブログで「どんな理由があっても、相手に大ケガを負わせたことはプロとして最低の行為だった。」と自分を責めていた。8月26日、両国国技館においてパートナーTARUと世界タッグ選手権に勝利し世界タッグ王者となった。 しかしヒールになったはいいものの、『良い人』という印象はまったく拭えないでいた。 2008年の3月1日には両国国技館での三冠ヘビー級選手権試合が行われたが佐々木健介に敗れる。チャンピオン・カーニバル後には右肘負傷のため欠場していたが、7月8日、新日本の後楽園ホール大会でリングに登場して天山を救出。翌日には2年ぶりにG1に出場することが決定し、20日には全日本の後楽園ホール大会で復帰した。8月3日石川・産業展示館3号館にて行われた6人タッグ戦終了後、TARUとの仲違いからVOODOO-MURDERSを離脱した。 天コジ復活、「F4」結成 [編集] 本隊には戻らず、小島本人の意思で孤軍奮闘。8月8日には更新が途絶えていたブログを再開した。 G1から新コスチュームで登場。最終日の試合でTARUの乱入によって真壁刀義に破れ決勝進出を逃してしまう。また、5日後の後楽園ホール大会ではTARUとの一騎打ちが実現。ラリアットで攻めるも反則裁定で勝ち、その後もVMのメンバー達に甚振られているところを天山広吉に救出される。これによって、8月31日の両国大会で小島、天山対TARU、真壁の試合が行われ勝利した。 また、大和ヒロシとKAIが新ユニット結成を直訴。小島もこれを受諾し、新ユニットが結成された。新ユニットの名称を「F4」と発表。小島は天山とのタッグで世界タッグ、翌年にはKAIとのタッグでアジアタッグに挑戦したがいずれも敗れている。 天山とのタッグで新日本のG1 TAG LEAGUEに参戦。初戦で敗北するなど苦難の連続と思われたが、その後は破竹の快進撃でリーグ戦を駆け抜け、見事優勝した。2008年の世界最強タッグにも天コジで出場し、見事優勝を果たした。同年で両団体のタッグリーグ戦を制覇したのは史上初めてである。その結果が認められて翌2009年1月4日の東京ドーム大会でのIWGPタッグ選手権に挑戦することも決まったが、突如、天山の怪我により挑戦が取りやめになった。しかし、天山の復帰戦となった5月3日のIWGPタッグ次期挑戦者決定戦で敗れて、試合後にタッグ解消を示唆した。 9月26日、王者であった高山善廣を下して三冠ヘビー級王者に返り咲く。 しかし、2010年2月7日の後楽園ホール大会で、F4とブードゥーマーダーズとの負けたら解散マッチに敗れ、結成1年という短さで解散することになった。 3月21日には浜亮太に破れ三冠ヘビー級王座も失った。 全日本プロレス退団後 [編集] 4月23日、5月をもって全日本プロレスを退団するという記事が東京スポーツに掲載され、本人もブログでその事実を認めた。 7月11日、古巣である新日本プロレスの後楽園ホール大会に姿を表し、G1 CLIMAX参戦を表明。そのG1本戦では2カ月ぶりの復帰となるものの予選ブロックを5勝2敗で通過し決勝戦進出を果たす。決勝では棚橋弘至を破り、自身初であると同時に新日本プロレス所属外の選手として初のG1制覇という快挙を成し遂げた、10月11日に真壁刀義に挑戦しIWGPヘビー級王座を奪取した。 獲得タイトル歴 [編集] 新日本プロレス [編集] IWGPヘビー級王座 : 2回(第41代・第55代) IWGPタッグ王座 : 3回(第31代・第36代・第40代) パートナーは最初が中西学→後の2回は天山広吉。 G1 CLIMAX優勝 : 1回(2010年) G1 TAG LEAGUE優勝 : 3回(1998年・2001年・2008年) パートナーは最初が武藤敬司→後の2回は天山広吉。 全日本プロレス [編集] 三冠ヘビー級王座 : 2回(第33代・第40代) 世界タッグ王座 : 3回(第47代・第49代・第53代) パートナーは太陽ケア→カズ・ハヤシ→TARU。 アジアタッグ王座 : 1回(第75代) グレート・コスケとして。パートナーは獅龍)。 チャンピオン・カーニバル優勝 : 1回(2003年) 世界最強タッグ決定リーグ戦優勝 : 4回(2002年・2003年・2006年・2008年) パートナーは太陽ケア→カズ・ハヤシ→06・08年は天山広吉。 MLW [編集] MLW世界ヘビー級王座 : 1回(第2代) ZERO-ONE [編集] 火祭り優勝 : 1回(2003年) プロレス大賞 [編集] 2000年、プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞(&天山広吉) 2002年、プロレス大賞 技能賞 2005年、プロレス大賞 最優秀選手賞 得意技 [編集] 自身のニックネームである「コジ」を冠した技が多い。 ラリアット(小島式ウエスタン・ラリアット、継承ウエスタン・ラリアット) 新日本プロレス時代から使っていたが、全日本プロレス入団後、PWF会長として来日していたスタン・ハンセンから直接指導を受けた。ハンセンのラリアットからヒントを得てラリアットを習得したレスラーは星の数ほど多いが、直接指導を受けたのは小島が初めてである。そのため小島のラリアットを「継承ウエスタン・ラリアット」「豪腕ラリアット」と呼ぶこともあるが、あまり浸透していない。 新日本時代は「世界一のラリアッター」を自称しながら1試合中に乱発していたため、ラリアットに一撃必殺を求めるファンからは「塩」(しょっぱいの意味。元は相撲界の隠語で口ばかり達者で弱い力士の意。転じて面白くないプロレスを指すことも)とも酷評され評価が低かったが、全日本移籍後にハンセンの教授を経てからは使用頻度を少なくし、フィニッシュ・ホールドとしての説得力を獲得している。 新日本時代には「ぶん殴りラリアット」と呼ばれていた(他にもバカヤロー・ラリアット、世界一ラリアットとも)。 「継承ウエスタン・ラリアット」と「ぶん殴りラリアット」ではスタイルが異なる。「ぶん殴りラリアット」では、長州力のリキラリアットのように助走をつけて自らの片腕を相手の喉下に当て込み、そのままマットに叩き付けるようにしたり、あるいはそのまま自らの体ごとマットに浴びせ倒すようにしたり、とにかく力任せ・勢い任せのラリアットだった。「継承・ウエスタン・ラリアット」では、相手の体勢・自分の腕の角度・タイミング・スピード・全身の力の込め具合など、様々な要素を考慮し必要最小限の力で最大の威力を発揮するハンセンのラリアットに近いスタイルとなっている。具体的な形としては、自らの片腕を伸ばし、野球の打者がバットを振るかのように自らの足腰を支点にして、伸ばした片腕を振り、相手の顎を的確に引っ掛けてそのまま振り抜くというものである。三冠王座陥落後からはハンセンのように相手をロープに振って返ってきたところを助走せずにカウンターで当てるパターンも使うようになった。 いっちゃうぞエルボー 「いっちゃうぞ!バカヤロー!」の叫びと共にトップロープに上ってダイビングエルボー・ドロップを行う。エルボー・ドロップを敢行する直前、必ず足元を確認する。 ちなみに、「いっちゃうぞ!〜」は対戦相手に対してのアピールと思われているが、TVインタビューで小島が「俺がバカだから、自分に言っているんですよ」と発言したこともあり、真相は不明である。新日本末期からは観客と一緒に合唱するのが通例。2007年1月2日の後楽園大会ではトップロープから「あけおめ!」といいながらエルボー・ドロップを落とした。ラリアットと並ぶ小島の代名詞的な技であるが、本人曰く「ピンフォールが全く取れないのが悩み」。ただし地味に痛い技で、蝶野正洋のようにこれを嫌いな技として挙げるレスラーもいる。2004年に武藤に「いっちゃうぞエルボーで満足している」と指摘され、叫ぶ直前に攻撃されるようになってスランプに陥ったが叫ぶと見せかけてその場で相手にエルボー・ドロップを落としてダイビングエルボー・ドロップを行うようになって克服した。ヒールターンしてからは「いっちゃうぞ!バカヤロー!」は言わず無言でやる。1度だけやったがその時は観客から大ブーイングを浴びた。しかし、2008年のチャンピオン・カーニバルの棚橋弘至戦で行った時は歓声が上がっている。なお、ヒール離脱後には以前と同じように叫ぶようになった。 CCD(コジ・クラッシュ・ダイナマイト) 小島が三沢光晴と対戦した際に食らったエメラルド・フロウジョンの威力に魅了されて、自ら研究して完成させた技。エメラルド・フロウジョンと類似だが、落とす方向はエメラルド・フロウジョンと逆サイドである。持ち上げ方はボディスラムの要領で担ぎ上げる場合と、ブレーンバスターの状態からいく場合とがある。また佐々木貴の「D-ガイスト」にも似ている。たまにノーザンライト・ボムのような形にもなることがある。 技名の「コジ」は自らの愛称、「クラッシュ・ダイナマイト」は若手の頃の入場曲の名前から取り、初心に帰るという意気込みが込められている。 コジマ・カッター(コジコジカッター) 小島の行うダイヤモンド・カッター。小島がダイヤモンド・ダラス・ペイジに憧れていたことから使い出した。相手の頭部を自らの肩越しに掴んで自分を前方に投げ出すようにしてジャンプし、相手の顔面をリングに打ち付ける。試合の流れを変える際によく使用される。当初コジコジカッターともコジマカッターとも呼ばれていた。なお2004年7月のHCW遠征時に、憧れのダイヤモンド・ダラス・ペイジとのタッグが実現した。 週刊プロレスの別冊であったケンファー第1号の小島聡特集で「恥ずかしいのでコジコジカッターの呼び名は使わないでください」と発言したが、新技名について言及が無かったため、もうひとつの呼び名であるコジマカッターがそのまま正式名称として残った。 コジMAXホールド 変形の羽折固め。うつぶせの相手に対し頭部側から馬乗りになり、右足で相手の左腕を羽折り上にロック。両腕で相手の右腕を掴み絞り上げる。 川田殺し 川田利明との三冠ヘビー級選手権対策として編み出した、変形のV1アームロック。長座になった相手の背後から、片腕を足で挟み込み、もう片方の腕を捻りあげて後方へ倒れこむ。師匠の浜口のもとに訪れた際「小島はあまりサブミッションを使わないから、一味加わえると良い」とアドバイスされたのが開発の転機となった。 コジMAXドライバー ファルコンアローのように担ぎあげて前に落とす。TAKAみちのくのみちのくドライバーIIとほぼ同型である。 ロッキン・バウ 相手の両腕を取り、その片腕を相手の首に巻きつけて、そのままネックブリーカー・ドロップのように落とす(新日本にも参戦していた、現WWEのウィリアム・リーガルのリーガルカッターと同じ)。 ライディーンバスター 旋回式スパイン・バスター ストレッチボム 相手の片腕を相手の股下を通して、その手首を片手でクラッチした変形のコブラツイストの体勢から、そのまま頭上付近まで持ち上げ、そこから相手の体を反転させると同時に開脚ジャンプし、尻餅状態で着地すると同時に相手を背中から落とす。「小島スペシャル」とも。 ラウンディングボディプレス 小島が若手時代に一年間程得意技として使っていた。元からムーンサルトはできないが海外遠征中に仲間に言われインパクトを残すために凱旋帰国試合で使用、その後何度も使用していたが相手に当たらず自爆したため封印した。 垂直落下式ブレーンバスター 小島はその場に脳天から落とすのではなく、後方に自らスライドするようにして落とす。獣神サンダー・ライガーの放つそれとほぼ同型である。 レッグ&ネックロック 左腕を相手の首の後ろに回して、右腕は相手の右脚を折りたたみクラッチを組む。佐々木健介が考案し、小島に授けた。新日本プロレスのヤングライオン杯で使用し決勝で中西学からギブアップを奪ったのはじめ、リーグ戦の大半をこの技で勝利し優勝を遂げた。しかし、それ以後、ほとんど使用されていない。 アンクルホールド VOODOO-MURDERSに加入してから使用。膝に爆弾を抱えている武藤敬司相手に主に使用している。 マシンガンチョップ 相手をコーナーに押し込み、相手の顔を見ずに、手のひらだけで逆水平チョップを速射砲で打ち続ける技。打ち疲れて遅くなったと思ったら、再び早くなり打ち続けている。この後に、いっちゃうぞエルボーを放つパターンが多い。 入場曲 [編集] 「STYLUS」(鈴木修)…三冠王座陥落後から使用。VOODOO-MURDERSに加入した時期は、「VooDoo -STYLUS-」を使用した。 「RUSH!!」(作曲:安部潤 演奏:N.J.P. UNIT) 「RIDE OVER 〜煽風〜」(作曲:戸谷勉 演奏:Blue Stealer) 「CRASH DYNAMITE」(作曲:大竹浩行 演奏:炎達) エピソード [編集] 2002年7月に入籍したことを翌年に会見で発表。2006年10月に長女をもうけた。 ヨーロッパ武者修行中のリングネームは、ジョー・ジョー・リー。 アレルギー性鼻炎に悩まされているため、2000年頃からはノーズクリップ(鼻孔拡張テープ)がトレードマークになっている。 2003年にはZERO-ONEの「火祭り」で優勝、賞金と火祭り刀を手に入れるが火祭り刀が抜けなかったので返還、オレンジ色の火祭り刀を作ってもらい入場時に持つようになっていた。 ヒールとしてnWoに在籍していたにもかかわらず、新日本のマークのついたシャツを着てインタビューを受けていたこともある。 小島の兄 (RYO) はハードコアパンクバンド「鉄アレイ」のボーカルで、インディーズバンド界の重鎮である。 ファンサービスの良さに関してはプロレス界No.1との呼び声も高い。 似顔絵が得意。桂三枝の物真似も得意。 天山とは同学年ではあるが入門が遅いためか、公では天山の“コジ”に対して“天山さん”と、さん付けで呼ぶ場面がみられる。 武藤に誘われ、リック・フレアー、トリプルH、ステファニー・マクマホンと食事をしたことがある。しかし、緊張のあまりほとんど会話はできなかったと本人は語っている(普通に談笑している武藤をみて、改めて偉大さを知ったとも話していた)。 2006年3月から放送された、TBS愛の劇場『すてきにコモン!』で小学校の先生役で出演するほど、ルックスが良く、演技力にも評判があった。その後、2007年9月から放送された『家に五女あり』にも医師役でゲスト出演している。 |
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