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志賀 賢太郎(しが けんたろう、男性、1974年12月6日 - )は、日本のプロレスラーである。茨城県勝田市(現・ひたちなか市)出身。フリー。本田多聞は、プロレス入門では同期にあたる。試合中に声帯を潰してしまったため、声がしゃがれている。
目次 [非表示] 1 人物 1.1 人柄 1.2 体重問題 1.3 難病との戦い 1.4 悪行への挑戦 2 略歴 3 タイトル歴 4 得意技 5 入場テーマ曲 人物 [編集] 人柄 [編集] 志賀はジャイアント馬場の最後の付き人であり、馬場が死去するまで5年間という異例の長さにわたって付き人を務めた。馬場は志賀の人柄をいたく気に入っており、終生付き人として用いた。秋山準も自身のブログで「新弟子よりも気が利く男」、「どこかの誰か(橋誠)とは違う」と評価している[要出典]。丸藤正道も「外見と中身が全く違う」と語っている。 2006年にコワモテの小悪党にヒールターンした後も相変わらず言葉遣いは丁寧で、セコンドに付いている際には試合中のレスラー、観客に気を配っている。2007年には、ヒールでありながらその「いいひと」ぶりが評価され、同年度の選手会長に就任している。 体重問題 [編集] 身長が高く将来を嘱望されたが、太りにくい体質であったためにヘビー級へのステップアップの障害となっていた。しかし靭帯骨化症からの復帰後は「体質が変わって100kgになった(歳のせい)」と本人は主張している[要出典]。 難病との戦い [編集] 2003年から首の負傷で長期欠場した。当初はヘルニアとされていたが、実際は靭帯骨化症と言う難病であった。このような難病を克服してリング復帰した苦労人であるため、流血戦の末白GHCを獲得しシングル初戴冠した時は、多くのファンがそれをたたえた。 悪行への挑戦 [編集] 2006年のヒール転向以降、数々の悪行を試みた。しかしキャラクターの方向性が「アニキ」「仁義」といったものに向かってからは、リング外での悪行はほぼ行っていない。 メイド喫茶へ行き、パンチパーマと100円ショップで買ったサングラス姿で店内を凍り付かせることに成功したものの、メイドさんと一緒に楽しめるゲームがビールを注文しないと出来ないと聞き、「昼間から酒を飲むことは出来ない」という真面目な理由で断念したこともある。また、これらの悪行を2006年5月19日・後楽園ホール大会のテレビ中継において、日本テレビの蛯原哲アナウンサーが解説のマイティ井上に説明したところ「あの志賀がですか・・・信じられませんね」と驚愕された。 試合前、タイツに凶器やブラシを隠しておいてはレフェリーに取り上げられるのが定番のやりとりとなっている。 略歴 [編集] 宮城県仙台第一高等学校卒業後に全日本プロレス入り。 1994年 2月21日、対浅子覚戦でプロレスデビュー。 2000年 6月、プロレスリング・ノア旗揚げと共に同団体へ移籍。 2003年 2月から首の負傷により長期欠場。当初は病名をヘルニアとしていたが、実際は靭帯骨化症と言う難病であったことが後々に明らかとなった。 2005年 9月18日、日本武道館大会の第一試合で同期の本田を相手に復帰。スキンヘッドに黒のロングタイツで登場し復帰を願うファンから贈られた千羽鶴を手に入場したが、自身の必殺技である志賀絞めで敗れた。 12月のクリスマス興行で任侠スタイル(着流しにパンチパーマ、「兄弟船」で入場)で登場。これが意外と評判が良く、本人曰く「手入れが楽でよい」ということで、このスタイルを継続することになった(通常は、その日限りで終わる)。 2006年 1月の開幕戦よりさらなるイメージチェンジを図り、パンチパーマにサングラス、無精髭をたくわえ、強面で小悪党スタイルのヒールレスラーに変身。 「どんどん悪いことをやっていく」と発言し、「まず合宿所の電気つけっ放し、水出しっぱなし」とそのワル具合を語る。 太田一平を無理矢理パンチパーマにしたほか、泉田純至にもアプローチし続け、パンチにさせることに成功。太田を「若頭」、志賀を「アニキ」、泉田を「叔父貴」とするパンチ軍団を結成。以降、「アニキ」は志賀の代名詞となった。 9月3日、愛知県体育館にてスコーピオから白GHC王座を奪取、第5代チャンピオンとなった。 10月20日、広島グリーンアリーナにて川畑輝鎮を相手に白GHC王座を初防衛。 11月29日、地元仙台サンプラザホールにて太田一平を相手に2度目の白GHC王座防衛に成功。 12月27日、ZERO1-MAXのリングにおいて、神風を相手にランバージャック・デスマッチルールによる防衛戦が行われ、セコンドのパンチ軍団の活躍もあって、3度目の白GHC王座防衛に成功した。 2007年 突如、白GHC王座を返上し、王者権限を使いタッグトーナメントを開催を宣言。自身は「カシラ」こと川畑輝鎮と組んで「パンパーズ(=パンチパーマブラザーズ)」を名乗り出場。決勝で潮崎豪・谷口周平組を破り第6代白GHC王者となった。 パンパーズとしてヨーロッパ遠征も行い、白GHC王座は防衛回数を重ねるもののパンパーズのライバルとなりうるタッグが現れず、個人のレベルアップを図るためとして川畑とのコンビを一旦解消することを決意。シングル王座に戻った白GHC王座を賭けた川畑との対決に敗れ、1年2か月保持していた同王座を「カシラ」に託すことになった。この試合は「負けたら坊主頭」の罰ゲームもあったため、志賀は潔くこれを受け入れ、自らのシンボルだったパンチパーマからも卒業することになった。 2009年 ハッスルの2代目モンスター℃選考オーディションに参加。ノア所属選手としては初のハッスル参戦となった(石森太二はノア入団前に参戦経験あり)。 タイトル歴 [編集] グローバル・ハードコア・クラウン(白GHC)第5代チャンピオン 2006年9月3日 スコーピオから奪取 2006年10月29日 初防衛 川畑輝鎮戦 2006年11月20日 2度目の防衛 太田一平戦 2006年12月27日 3度目の防衛 神風(ZERO1-MAX)戦 グローバル・ハードコア・クラウン(突如ベルトを返上し、タッグベルトとした)第6代チャンピオン(川畑輝鎮とのタッグ) 2007年2月17日 潮崎豪・谷口周平組戦 タッグトーナメントで優勝 2007年4月17日 初防衛 泉田純至・橋誠組戦 2007年7月4日 2度目の防衛 秋山準・谷口周平組戦 グローバル・オナード・クラウン チャンピオン(秋山準・力皇猛組)へ挑戦 2007年7月15日 秋山準・力皇猛組戦 敗退 得意技 [編集] 志賀絞め STFの形からフェイスロックをかけている腕を片羽絞めに移行し、さらに仰向けになることによって完成する複合サブミッション。命名は小橋建太で当時、復帰に向けてハワイでトレーニングをしていたことから「ワイキキビーチ」という安直な名前を提案され志賀が拒否したが、続けて出された名前が「志賀絞め」というさらに安直な名前で渋々承諾した。背後から絞められる上に片手・片足をロックされているため脱出が非常に困難で、対戦した秋山準も絞め落とされたことがあるが、フォールを狙う為途中でロックを外すこともあり、その場合は逆襲されがちでもある。 SSS(スパイラル・シガ・シューター) 相手を背後からボディスラムの体勢で持ち上げ、旋回させながらDDTのように落とす技。 コブラツイスト 卍固め よくコブラツイストから卍固めに移行することが多い ストレッチ・ボム/ストレッチ・バックブリーカー 元は小橋の技で、2006年度後半より頻繁に見せるようになった。終盤ではマットでなく自分の膝に叩き付けるバックブリーカーへと進化させている。 ロールパン(with カシラ) ローリング・パンチの略。コーナーに上がったカシラをアニキが投げつけることによって威力を上げたセントーン・アトミコ。 スイングDDT 相手の首をつかんだままコーナーへ乗り、そのまま反転して放つDDT。主に若手時代のフィニッシュ技。 各種関節技 ファイトスタイルを模索していた一時期、腕ひしぎ逆十字固めなどを使用していた。 入場テーマ曲 [編集] SOLID SKY/春畑道哉 TRADITION TRADITION '05 兄弟仁義/北島三郎(パンパーズ) 兄弟船/鳥羽一郎(パンパーズ) PR |
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ジ・アッチィー(本名:アツシまで公表、1973年9月22日 - )は、日本のプロレスラー、
大分AMWプロレスの代表。 身長175cm、体重90kg。血液型O型。 目次 [非表示] 1 人物 2 エピソード 3 入場テーマ曲 4 得意技 5 外部リンク 人物 [編集] 1973年、大分県別府市生まれ。 愛称は「アッチィー」。よく温泉→熱い→アチィー!からきてると思われるらしいが、本名の「アツシ」からきている。 トレードマークは温泉マーク。マスクの両耳には温泉マークをつけており温泉地である別府、湯布院をPRしている。 キャッチコピーは「大分の英雄」。 活動はプロレスラーとしてだけでなく、ラジオDJ、講演会、執筆、映画イベントやライブイベントなど各イベントプロデュースも手掛けており、地元大分のTV、ラジオ、雑誌などでも活躍するタレントとしての活動も行っている。 幼少時代から青春時代にかけてザ・ドリフターズ、プロレス、パンクロックに大きく影響を受けたと言われる。特に志村けんの影響が大きかった事は有名である。 エピソード [編集] 大分県立別府鶴見丘高等学校に在学中(1990年)に プロレス・ 総合格闘技団体を結成。 選手は学校以外にも他校から、また専門誌で呼びかけ九州・山口から学生から社会人が集まるようになり、定期的に大会を行うようになる。 この団体は総合格闘技部門とプロレス部門に分かれていた。 総合格闘技部門はUWFが格闘技路線のプロレスを実践していた前田日明、藤原喜明、山崎一夫らに影響され 高校生ながらプロレス最強論を示そうと独自のルールで多種格闘技の選手と試合を繰り広げていたらしい。 きっかけは好きな子へのアピールだったと地元TV番組で語っていた。 当時バンド活動もしていたため他の分野で好きなプロレスも表現したかったとの事。 高校卒業後、福岡市内の 専門学校に進学するがプロレスへの想いが断ち切れず自主退学。その後はフリーターを続けながら1993年に福岡市で新たに「アマチュアリズム・プロレスAMW」を旗揚げ。 その翌年大分に帰郷する際、もう1つの夢であったザ・ドリフターズの一員になりたくて行動に移すが所属事務所から募集してないと言われ地元の大分県の別府市に戻る。 大分へ移るもAMWとして活動。だが練習場もプロレスに理解してくれる人がいない為に夜の公園などで練習を行う。 学生時代から持ち前のパンク精神で乗り越え、地元新聞やTVなどでも取り上げられ少しずつ露出も多くなり、動員数も増加。 アマチュア時代、みちのくプロレスの九州巡業全会場で試合を行い(アマチュアとして第0試合)、プロの姿勢などを学びグラン浜田から指導されプロレスラーになると決意する。 1999年、ファンに新しい夢を与えたいと試合終了後「プロ団体として活動する」と発表。この模様は九州ネットのテレビ番組で「プロ化への道」と紹介された。 だがこれをきっかけにアマチュアのこだわりをもった選手等が大量離脱する。それでもプロという次のステップに進むため、ファンに夢を与えるため軌道修正はせず残った選手・スタッフらと旗揚げに向かった。 2001年、数々の試練を乗り越えトレーナー・顧問を グラン浜田としプロ化。団体名も「大分AMWプロレス」と変えて新たな出発をする。 「大分AMWプロレス」の略は、Oita Attactive Merry World Pro-Wrestling.「大分の驚異的に愉快な世界のプロレス」 入場テーマ曲 [編集] ジャッキー・チェン 「プロジェクトA」 得意技 [編集] 別府八湯ボム(ライガーボムの名前をオリジナル名にしたもの) 豊後かぼすドライバー(みちのくドライバーの改良型) |
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村 キンタロー(かねむら キンタロー、本名:金村 珩皓(かねむら ゆきひろ)、1970年8月9日 - )は、三重県津市出身の男性プロレスラー。身長・六尺三寸(約190cm、正式身長は178cm、体重・五十八貫(217.5kg、正式体重は112kg)。在日韓国人であることを公言しており、韓国名は金珩皓(キム・ヘンホ、김행호)。血液型B型。
以前は金村ゆきひろとしてファイトしていた。元妻は元全日本女子プロレスの中見川志保で、W★ING時代に中見川が参戦したことで知り合った。 あだ名は「理不尽小僧」。恩師である冬木弘道のあだ名「理不尽大王」にちなんでいる。また、ファン(特にハッスルに来ている人たち)からは「キンちゃん」、黒田哲広からは「オヤジ」と呼ばれている。 アパッチプロレス軍興行で、味方冬樹(K-DOJO)からリングコールされる際に「伊勢湾の暴れん坊、アイ・アム・プロレスラー」と紹介される(リングアナが味方以外の場合は、この紹介はされない)。 目次 [非表示] 1 経歴 2 タイトル歴 3 入場曲 4 主な得意技 5 エピソード 6 関連項目 経歴 [編集] 1990年12月20日、剛竜馬率いるパイオニア戦志の愛知・半田市民ホール大会にて齋藤彰俊戦でデビュー(当初はパイオニア戦志所属だったが、その後退団。だが、剛竜馬とのトラブルを避けるために、誠心会館所属となる)。パイオニア戦志が崩壊した後、誠心会館の自主興行に参加した後、旗揚げされたW★INGに参戦。エースであった徳田光輝、齋藤彰俊、ミスター・ポーゴ、松永光弘らが次々と離脱する中、命知らずのデスマッチを展開し、エースと目されるようになる。1993年に行われたスクランブル・ファイヤーデスマッチでは、邪道、外道に大火傷を負わされて、長期欠場となった。それだけでなく邪外にはいつも惨い虐めを受けていたようで、憲法がなかったらぶっ殺すとまでインタビューで語るほどその恨みは深い(ただし、大火傷はあくまでアクシデントである)。 1994年のW★ING解散後はビクター・キニョネスが旗揚げしたIWAジャパンに参戦したものの、わずか4か月で離脱。IWAジャパン離脱直後にFMWの札幌中島体育センター大会に乱入、ポーゴ、松永らとW★ING同盟を結成して、大仁田厚ら正規軍と争う。大仁田引退後は、W★ING金村と改名。1997年に大仁田率いる「ZEN」に加盟するも、すぐに離脱し、冬木弘道、ミスター雁之助らとTNR(チーム・ノーリスペクト)を結成した。雁之助、邪道、外道、非道とは「ブリーフブラザーズ」として、ブリーフ姿でリングに上がり、コントも披露。人気を博す。現在入場時にやっている「ブリブラダンス」は、ここから始まった。 FMW解散後は冬木と行動を共にし、WEWに参加しながら、様々なプロレス団体に参戦。ある1年間で一番試合をしたレスラーになるほどである。冬木亡き後、橋本真也と電流爆破マッチを行った。黒田哲広らと共に「アパッチプロレス軍」を名乗り活動する。2005年には長州力と対戦し敗れ、長州の軍門に下った。現在、新日本プロレスにシリーズ参戦し、C.T.Uと過激な抗争を繰り広げ、メジャー系プロレスファンの憎悪を浴びている。 それにあたり、金村は「おれらみたいなチンピラ(リングに)上げている地点で新日本は終わりや。」、一部新聞誌のインタビューコーナーでインディーを批判した坂口征二新日本相談役に「アンタのリングで一番ヒートしているのはC.T.Uとアパッチの戦い。現場を見てから物言え。」などと、新日本への批判を連発した。最終的にC.T.Uの抗争はアパッチプロレスのリングまでもつれ込み、4月14日のアパッチプロレス後楽園ホール大会で金村、黒田、非道vs邪道、外道、獣神サンダー・ライガーのストリートファイト6人タッグマッチで激突し、金村組が勝利することで幕を下ろした。 2002年7月のZERO-ONEの第2回火祭りAブロック公式戦での大谷晋二郎戦で金村が開始ゴング前から場外で先制攻撃を行ない、両者がリングインした時にゴングが鳴り、その瞬間に大谷がバックをとりフルネルソンからドラゴン・スープレックスを放ち、何と3秒で決着がつくといった失態ともいえるプロレス史上に残る最短試合記録をつくってしまい、翌日発行の東京スポーツ誌の一面を飾る(直後のWEW興業の前説で金村はその不名誉な記事が掲載の東スポを持参し、その日の裏表紙が松坂慶子のヌードの記事で同じ日に表紙になり幸せだと冬木に語る)。 ハッスル出場時は、「HUSTLE 03」と書かれた赤い半そでのジャージを着て(ハッスル14から)入場し、ハッスルハードコアブラザーズとして、同じFMW出身で同世代の田中将斗、黒田と共に活躍している(このタッグは、ハッスルと大日本プロレスでしか見ることが出来ない、「激レア」モノと呼ばれている)。金村が出る試合だと必ず金村の入場曲が流れて、その試合のタッグパートナーとブリブラダンスをする(大日本では、田中将斗の登場曲になる場合もある)。ハードコアを得意としているから高田モンスター軍には無類の強さを発揮しているのだが、チーム3Dとは何回か戦っているが、未だに勝ったことがない。金村のハッスルでの楽しみはドクロンZの胸をもみもみしてチューをすることらしい。最近はドクロンZが出てこないのであまりやっていなかったが、ニューリン様がハッスル軍に入った時、ドクロンZのことなどすっかり忘れたように好きになってしまった。ハッスル・ハウスvol.20の時にハッスル19のタッグパートナーとしてニューリン様と組みたいということでTAJIRIと言い争っていた。その時に、金村が「俺のほうが先輩や。先輩の言うことを聞け!」と先輩ヅラまでした。それを見てニューリン様が「TAJIRIとキンタローはキモいから組みたくねーんだよ!」と言われて、失恋した。 2006年9月24日冬木の創設したWEWヘビー級王座を懸けて真壁刀義と「ストリートファイト有刺鉄線バリケードマッドチェーンデスマッチ」で対戦するも敗北。11月18日に真壁に再挑戦するも完敗。 2007年4月のハッスルシリーズに金村似のマスクマンキンターマンが登場、黒田哲広似のクロダーマン、ケビン・ランデルマン似のランデルマンと組んで参戦し、モンスター軍に雇ってもらえるよう頼むも、あっさり拒否された。 2007年6月24日真壁を破りWEWヘビー王座を奪還するも、7月29日に開催された初防衛戦で矢野通に敗北しベルトを失っている。それからは怪我もあり、対新日本から一歩引き、大日本では小幡優作のアシストに回る。 2008年2月18日、同年1月20日に大日本プロレスの女性社員に対し猥褻行為を行ったとして、1月24日をもって同団体への無期限出場禁止処分を受けていたことが発覚。2月20日に黒田を伴い謝罪会見を行う。しかし、髪はボサボサ、ネクタイも締めず胸元がはだけてしまっているという誠意が見られない姿であった。またアパッチプロレス軍も、金村を解雇処分並びに参戦無期限禁止とすることに加え、団体としての活動を無期限自粛することとなった。金村自身もレスラー活動を停止する。 2月22日、アパッチ新木場大会でアパッチプロレス軍を解雇、運営会社「CF企画」の親会社「キャッシュボックス」預かりとなることが発表されている。3月11日、被害者との和解が成立。3月27日、折原昌夫主催のメビウス新宿大会にて復帰。折原自身が金村に説得と参戦オファーを申し出したことによる。 4月、大仁田厚から復帰を否定されたことにより闘論するなか、ロックアップでタッグ対戦が決定する。 6月16日、金村、黒田、田中で、「インディペンデント・ハードコア・ブラザーズ」を結成。このチームを中心としたプロレス集団「XWF」の旗揚げを発表した。 2010年現在は、ZERO1を中心とした活躍が見られる。 10月、アパッチプロレス軍の復帰を発表。 タイトル歴 [編集] WMGタッグ アジアタッグ王座 WEWシングル WEW6人タッグ WEWハードコア WEWハードコアタッグ王座 インディペンデントワールドヘビー 世界ブラスナックルタッグ 世界ストリートファイト6人タッグ W★ING世界タッグ PNWヘビー WWCカリビアンヘビー KO-D無差別級 BJW認定デスマッチヘビー級王座(大日本プロレス) 入場曲 [編集] 「COME OUT AND PLAY」(FMW Edit) オフスプリング 「COME OUT AND PLAY」 大一番試合にのみ使用。 主な得意技 [編集] 巨体が生み出すパワーが武器。試合運びは巧みでそのような型式の試合にも対応できる。特にハードコアマッチの経験は豊富で、場外乱闘や椅子、机を使用した攻撃も得意とする。 爆YAMAスペシャル トップロープダイビングセントーン。金村の重量級のボディが降ってくる姿はフィニッシュ・ホールドの説得力十分である。 ヒューマン・トーチ 相手を担ぎ上げ、尻餅をつくような体勢で相手の後頭部をマットに叩きつける技。開脚式のサンダーファイヤーパワーボム。井上京子のナイアガラ・ドライバーに似ているが、相手を持ち上げた時の体勢が若干違っている。 サムソン・クラッチ 師匠の冬木弘道(サムソン冬木)の技。相手に背後からクラッチされた状態からクラッチを切り、尻餅をつくように後ろへ倒れ込みつつ相手の足首を掴み、前方回転し丸め込む。 椅子チャンバラ それぞれにパイプ椅子を持ちチャンバラの如く打ち合うムーブ。 サンダーファイヤー・パワーボム 大仁田厚の得意技。パワーボムの状態で抱え上げ自分の顔ではなく肩に相手の臀部がくるようにするパワーボム。 牛殺し投げ 投げっ放しジャーマン・スープレックス。 エピソード [編集] この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2008年1月に貼り付けられました。 故人である父とは折り合いが悪かったといい、雑誌のインタビュー中に突然「明日親父の葬式なんだけど行くかどうか迷っている」と告白したことがある。 自主興行を打つ際に出場選手のギャラや経費をしっかり払い、自分の分け前がほとんど残らなかったことがある。インディーらしからぬ律儀さともいえるが、やや金勘定が苦手ともいえ、その点を黒田に心配されている。 参戦している大日本プロレスでは、山川竜司の師匠・兄貴分(ただし年齢は同じ)として厳しい言葉を掛け続け、特に山川の欠場が決まった際、コメントを取っているマスコミに対し、「逃げている奴の言葉など載せないで、今頑張っている若い選手のコメントを載せろ!」と言い放つも、2006年9月23日桂スタジオでの再起戦では、自分の負担が増すことを承知の上でパートナーを申し出た。また、山川と同世代のシャドウWXなどとの、一種のコミュニティといったものが出来上がっている。 最近では特に関本大介に目をかけており、金村の親友・田中将斗を目標としている関本のため、一度タッグを組んでみる様に提案したりと、厳しい言葉を投げかけている。金村いわく、「大介だけはアパッチも、たかし軍団も、関係ない。大介個人のために壁になりたい」と語る。ちなみに金村は関本のことを「セクス本大スケベ」と呼んでいる。 |
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小幡 優作(おばた ゆうさく、1984年2月13日 - )は、日本の男子プロレスラー。XWF所属。富山県滑川市出身。身長175cm、体重75kg、血液型はAB型。小幡優作はリングネームで、本名は公開されていない(デビュー団体の規定による)。鍛え抜かれた体が特徴である。
目次 [非表示] 1 経歴 2 得意技 3 タイトル歴 4 入場テーマ曲 5 その他 5.1 テレビ出演 6 関連項目 7 外部リンク 経歴 [編集] KAIENTAI-DOJOに練習生として入団する。 2004年にヤス・ウラノの襲撃にて首を負傷してデビューが延期する。 2005年 4月24日に、対石川はじめ戦にてプロレスデビュー。 12月9日に開催されたインディーサミットに出場した。 2006年 9月3日に勤王党所属となった。 11月12日にKAIENTAI-DOJOを退団、フリーとなる。 12月16日アパッチプロレス軍入りが発表。 2007年 9月24日・10月14日大日本プロレス後楽園ホール大会で勝利し、金村キンタローをパートナーに、関本大介・佐々木義人(ZERO1-MAX)のBJW認定タッグ王座挑戦を要求、受諾され、11月26日大日本・後楽園大会でのタイトルマッチが決まった。 2008年 6月16日、6月14日付けでアパッチプロレス軍退団を発表し、金村キンタローが発足した「XWF」に入団。 7月の大日本・横浜文体で、ファンからXWF移籍を糾弾され、この大会で大日本から撤退。 得意技 [編集] ファイヤーバードスプラッシュ タイトル歴 [編集] K-AWARD 新人賞(2005年) 入場テーマ曲 [編集] 「Phoenix」(A1-joko)※キングレコード「KAIENTAI DOJO 2」に収録 その他 [編集] テレビ出演 [編集] プロレスKING(GAORA) ピタゴラスイッチ(NHK) |
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長州 力(ちょうしゅう りき、男性、本名(通名):吉田 光雄(よしだ みつお)、韓国名:郭 光雄(クァク・クァンウン、곽광웅)、1951年12月3日 - )は、山口県徳山市(現:周南市)出身のプロレスラー。血液型O型。在日韓国人2世である。
海外遠征時のリングネームはリッキー・チョーシュー。ニックネームは「革命戦士」。入場曲は平沢進作曲のオリジナルテーマ曲「パワーホール」。最終学歴は専修大学卒業。 目次 [非表示] 1 来歴 1.1 オリンピック出場のエリート 1.2 「かませ犬発言」から「革命戦士」へ 1.3 ジャパンプロレス旗揚げ〜全日参戦 1.4 新日復帰・現場監督就任 1.5 WJプロレス 1.6 新日本再復帰〜そして現在 2 獲得タイトル 3 得意技 4 長州力の物真似をする主な有名人 5 歌 6 語録 7 エピソード 7.1 性格 7.2 入場曲 7.3 長髪の変遷 7.4 マスコミ嫌い 7.5 マスメディアへの露出 7.6 長州小力や有田哲平の影響 7.7 テレビゲーム登場 7.8 インディー団体へのまなざし 7.9 パチンコ・パチスロ 7.10 その他 8 脚注 9 関連項目 10 外部リンク 来歴 [編集] オリンピック出場のエリート [編集] 小学生の頃から柔道を習い、高校(山口県桜ケ丘高校)からレスリングに転向。ミュンヘンオリンピックには韓国代表として出場。 同じオリンピック代表選手であったジャンボ鶴田をライバル視しており、スカウトにより大学卒業と同時に新日本プロレスに入門。デビューは1974年8月8日、日大講堂でのエル・グレコ戦。サソリ固めで勝利を飾る。デビュー時のリングネームは吉田光雄であったが、後に故郷の旧名である長州と力道山から長州力と、ファン公募によって改名。因みに出身地の徳山市は旧周防国(すおう)であるが、長門国(ながと)と合わせた2国を治めていたのが毛利家の長州藩であった。 テレビでの登場機会も多くタイトルマッチも多かった。チャンスを多くもらったのだが、長髪全盛の時代に角刈りで腹も出ており、技も華やかさに欠け無骨なファイトだった長州はさっぱり人気が出ず、精悍で女性受けする藤波辰巳、木村健悟の後塵を拝す。ストロング小林を抜いてヘビー級3番手に浮上し、坂口征二と共にNWA北米タッグ王座を保持していたが単なる脇役という印象は拭い去れずにいた。同タイトルもアントニオ猪木の提唱するIWGP構想により(IWGP発表当初はタッグに関する構想はなかったにもかかわらず)返上となった。 「かませ犬発言」から「革命戦士」へ [編集] ワールドプロレスリングの視聴率が20%を超えるという「新日ブーム」で沸く1982年に入ると、藤波辰巳との「名勝負数え歌」で一躍ブレイク。短い髪が流行っていた1980年代になぜか長髪になっていた長州は『革命戦士』のニックネームとともに時代の寵児となり、マンハッタンコンビ(ボブ・オートン・ジュニア&アドリアン・アドニス)を模したツープラトン攻撃と素早いロープワークとを駆使し、短時間で勝負を付けるプロレス・スタイル「ハイスパート・レスリング」はのちにプロレス界の主流となっていった。 ブレイクの発端となったのは「藤波、俺はお前のかませ犬じゃない!」という発言だが、長州が実際に発した言葉は「なんで(入場の際に)オレ(長州)がオマエ(藤波)の前を歩かなきゃいけないんだ! なんで(メキシコで当時実力No.1のエル・カネックを破り、UWA世界ヘビー級王座を奪取し凱旋してきた)オレがオマエの前に(試合前での)コールされなきゃいけないんだ!」であった。格下が先に入場し先にリングアナウンサーに紹介されるのが業界の慣わしである。藤波は年下であるが先輩であり、長州戦で6戦6勝と、この時点では人気・実績共にはるかに勝っていたため当然とも思われることであったが、これに長州は噛み付いた。この直後、プロレス雑誌「ビッグ・レスラー」82年12月号の単独インタビューの中で長州が初めて「噛ませ犬」という例えを使っている。インタビュアーも「噛ませ犬…?」とすぐに意味が飲み込めなかった様子も書かれていた。ここから拾い上げたかは定かではないが、当時の新日本プロレス実況を行っていた古舘伊知郎アナが「かませ犬」という言葉を頻繁に使い浸透していったものである。 その後、当時の体制に反旗を翻して、師と仰ぐマサ斎藤やキラー・カーンと共に「革命軍」を結成。さらにラッシャー木村率いる国際軍団を振り切る形で長州と活動を共にするアニマル浜口[1]、浜口と同じく国際軍団の寺西勇、タイガーマスクとの抗争で同じく新日軍を敵に回していた小林邦昭、そしてレスリング日本一の触れ込みで新日入団後、海外武者修行に出て帰国した長州の弟子ともいえる谷津嘉章らと共に「維新軍」を結成する。また、アメリカで活躍するタイガー戸口(キム・ドク)も時折、維新軍に帯同した[2]。 長州は長髪にし日焼けしてイメージチェンジ。1981年末に全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを真似た「リキ・ラリアット」を頻繁に使うようになる。ニューヨークにて発掘されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を巡って藤波と「名勝負数え唄」といわれる連戦を展開、1983年4月3日には藤波をピンフォールで破り王座奪取。「俺の人生にも一度くらいこんなことがあってもいいだろう」という名言を残す。 ジャパンプロレス旗揚げ〜全日参戦 [編集] その後ジャパンプロレスを旗揚げし、維新軍団に所属するレスラーを率いて戦場を全日本プロレスへと移すという、新日本に対し最初の造反を行う。UWFに続き、長州および維新軍団にも去られた新日本は選手が不足し、窮余の策として若手を登用、これが後の闘魂三銃士の隆盛に繋がる。 全日本マットにハイスパート・レスリングを持ち込むものの、当初はジャイアント馬場から「シャム猫のケンカ」と揶揄された。だが、結果的にはそれまでショー的要素の強いアメリカン・プロレススタイルが主流であった全日本の試合内容に変革を起こすこととなった。また全日本所属の天龍源一郎は長州にライバル意識をムキ出しにしたことで注目されることとなった。 そして、全日本プロレスのエースであるジャンボ鶴田と、大阪城ホールでのメインイベントにて60分フルタイムの激闘を展開した。この試合については、後述の1998年の引退時のインタビューにて「あの試合はしんどかったね」「結果的に60分ドローだったけど、明らかに俺の方がバテてたよね」と、自分の方が不利であったことを認めている。この試合は、1985年のプロレス大賞の年間最高試合賞(ベストバウト)を獲得した。 天龍、鶴田の他にも、馬場をはじめブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、ドリー・ファンク・ジュニア、リック・フレアーらの世界的な名選手との対戦が行われ、全日本プロレスへの参戦は、長州にとっても大きな経験となった。1985年秋から全日本プロレス中継がゴールデンタイムに復帰するのも長州らの参戦による盛り上がりが大きく貢献している[3]。 1986年2月5日に谷津嘉章とのチームで鶴田、天龍の鶴龍コンビを破ってインターナショナル・タッグ王座を奪取。(この時は谷津がジャーマン・スープレックスで天龍からフォール勝ち)さらに、二か月後の4月5日にはハンセンを破ってPWFヘビー級王座を奪取。この王座は全日本創設以来の看板タイトルで、この時点で鶴田も天龍も奪取していなかった。しかし全日本のタイトルに興味がない長州はベルトを無造作に手に持ったり肩に掛けたりして、マスコミへの撮影以外で腰に巻くことはほとんどなかった。 その後、テリー・ゴディ、テリー・ファンク、カート・ヘニングらを相手に防衛に成功。1987年2月から病気(ガングリオン)で全日本のシリーズを欠場し、そのまま新日本に復帰。契約問題で馬場および日本テレビと揉め大騒動に発展した(該当項目参照)。これによりジャパンプロレスは崩壊。また、長州のスタイルに強い影響を受けた天龍は、長州離脱後の全日本マットで激しいプロレスを展開し、後の四天王プロレスのスタイルの礎を築いた。 新日復帰・現場監督就任 [編集] 1986年ごろからインタビューやマイクで藤波の名を口にし、古巣へのカムバックが次第に色味を帯びてきた1987年、長州の師であり維新軍でも頭目格であったマサ斎藤と猪木との抗争が始まる。これに伴い、調印式などに長州も姿を見せるようになりいよいよ復帰が秒読みと思われつつあった中、4月27日両国国技館での猪木vs斉藤戦に際し、セコンドとして幾人かの元ジャパンプロ盟友らとついに新日会場に姿を見せる。試合前の協議でリング下につくセコンドは馳浩のみとなり、長州はリングサイドでの観戦を余儀なくされたが、斉藤がKO負けした直後は周囲に押さえられて未遂に終わるもリングに駆け上がらんばかりであった。これを契機についに長州の新日復帰が加速するかに見えたが、新日側は長州軍の参戦カードを中々組まず、痺れを切らせた長州側は5月30日鹿児島県立体育館大会にてカードジャックを強行、第8試合にて長州は斉藤とのタッグで出陣の運びとなったが、この入場時に藤原が3年前を髣髴とさせるテロ行為に出る。鉄パイプ奇襲で負傷した長州はこの日はマシンに試合を譲ることになった。中一日をおいての6月1日、愛知県体育館にてマシンとのタッグで2年8か月ぶりの新日マットでのファイトに勝利を飾った。 長州側の陣容は、ジャパンプロレス時代に1986年8月全日マットで謀反を起こしたカーン、そして当時引退状態にあったアニマル浜口、全日本にそのまま残った谷津嘉章、寺西勇らを除き、マサ斎藤、小林邦昭、カルガリーハリケーンズのリーダースーパー・ストロング・マシン、またマシンとともに常に行動を共にしていたヒロ斎藤、更に専修大学の後輩でジャパンプロ出身の馳浩、そしてジャパンプロ生え抜きの佐々木健介といった選手らと反新日体制を率いる。正式な軍団名は無かったが全員リキプロに所属し、テレビやマスコミからは“長州軍”“ニュー維新軍”などと呼ばれていた。その軍団の当時のトレーニングジャージ(チャンピオンプロダクツ製)には背番号が入っていた(ちなみにマサ斎藤:0、長州:1、マシン:2、小林:3、ヒロ斎藤:5、保永昇男:6、佐々木:7、馳:8、タイガー服部:10、笹崎伸司:12)。現在でもマシーンはこのジャージを着用してリングインするときがある。 この合流に際し、一足先に新日本に合流していた前田日明率いるUWFとのからみがファンに期待されたが、目立った直接対決の機会のないまま新世代として長州、藤波、前田らは共闘し、猪木世代を相手に世代闘争を繰り広げることとなる。 しかし長州の一存でほどなくこのアングルも瓦解、新日本隊対長州軍という流れへと移行していく。次第にUWFの存在を希薄化され解体吸収されることを危惧しナーバスになった前田が長州の姿勢を「言うだけ番長」と揶揄するなど、徐々に確執が顕著になっていく中、11月19日後楽園ホールの長州軍対UWFの6人タッグマッチにおいて、前田による長州への顔面蹴撃事件が勃発。これにより長州は眼窩底骨折で長期欠場、前田は新日本を解雇され独立の道を歩み、第二次UWFの旗揚げへと繋がる。 これは同時に新日本内部において反対勢力を排し長州の影響力を強める契機となった。 長州・新日本とUWFという後のプロレス界を席巻、牽引していく二大潮流の源流であり、また両者両団体の因縁の発端と言う意味でも、プロレス界における昭和から平成へのひとつのエポックとなった事件といえる。 長州は1988年7月にアントニオ猪木から念願のフォール勝ちを奪い、名実共に新日本マットの中心となった。そして現場監督として猪木が一線を退いた後の団体を取り仕切り、因縁浅からぬUWFインターナショナルとの抗争を主導し、新日本プロレスに莫大な利益をもたらす。しかし、その後は愛弟子の佐々木健介や他団体の天龍源一郎を重用する等の私情優先とも取れる経営も見られ西村修などの一部新日選手に長州を嫌う傾向が出始める。 1998年1月4日の東京ドーム大会で引退。引退試合は藤田和之、吉江豊、高岩竜一、飯塚高史、獣神サンダー・ライガーの5人掛けであった。(藤田、吉江、高岩、ライガーに勝利。飯塚に敗北。)引退後、長州力のリングネームは愛弟子の佐々木健介が襲名するという話が持ち上がるも実現せず[4]、引退前は現役復帰を完全否定していたにもかかわらず大仁田厚の参戦・挑発に乗る形で2000年7月に現役復帰した。 WJプロレス [編集] 2002年2月武藤敬司派が新日を退団した責任を取らされ現場監督の任を剥奪。2002年5月痛烈な猪木、藤波批判を行った上新日本プロレスを退社。盟友・永島勝司と共に有力タニマチであった福田政二を代表取締役として2003年3月WJプロレス(ファイティングオブワールドジャパン)を旗揚げしたものの、多数の「諸般の事情」により頓挫、総合格闘技イベントX-1やZERO-ONEとの対抗戦に活路を見出そうとするも崩壊に至った(該当項目参照)。 なお、WJ設立時のオープニングシリーズでは全6戦全てのメインに長州対天龍のシングルマッチを組んだ。 新日本再復帰〜そして現在 [編集] ハッスルやインディー団体へ参戦を続け、2004年新日本に一時復帰。2005年10月8日、サイモン・ケリー猪木(当時新日本社長)との会談で、リキプロに所属しつつ新日本プロレスの現場監督として復帰(ただし、新日本所属ではなく、あくまでリキプロ所属である)。このサイモンの独断により新日所属レスラーの意見は真っ二つに別れた。特に藤波は発表当初は歓迎をしていたものの、なぜかドーム興行終了後に態度を180度転換している。実際、前日組まれていたカードを当日になって変更するなど一部の選手とは更なる軋轢を生んでいる。 現在は新日本の現場監督と、元WJ所属の若手選手によるプロダクションリキプロで、選手会興行を単発で行っている。 2009年にはレスラー生活35年を迎え、記念パーティ「長州力レスラー生活35周年を祝う会」を開催した。その中で「自分のゴールはもう目の前にある」と近い将来に2度目の引退をすることを示唆した[5]。11月には征矢学と全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。1985年と1986年に谷津と組んで出場して以来23年ぶりに全日本プロレスのリーグ戦に出場することとなった。 2009年には引退を意識してかどうかは定かでないが、新日本のみならずドラディション、リアルプロレス、ハッスル、全日本と精力的に各団体へ参戦。一部ではいまだに遺恨が深いとされる猪木率いるIGFへの参戦説まで浮上したがこれは実現に至らなかった。SアリーナでGKこと金澤克彦からIGFよりオファーがあったかどうかを突っ込まれると「ノーコメントだよ。聞くなって!」と切り返し微妙な含みを残した。 2009年9月8日に竹内力の双子の弟というギミックのRIKIが「日本リーゼン党」立ち上げの記者会見を開き、長州力と高山善廣が「日本リーゼン党」に入党したことを発表した[6]。しかしハッスルの事実上の倒産によってこのアングルは立ち消えとなっている。 2010年銀幕デビューとなる「星砂の島のちいさな天使」に初出演。共演者の美保純が番組でその演技力を絶賛する。現在は大手芸能プロダクション芸映が芸能活動の全てをバックアップしていることから今後も俳優としての露出も増えることが予想される。 2010年10月20日、藤波辰爾、初代タイガーマスクと共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。また、藤波と長州の1997年8月10日以来となる一騎打ちも決まった[7]。 獲得タイトル [編集] IWGPヘビー級王座 - 第6代、第8代、第12代王者 PWFヘビー級王座 - 第11代王者 WWFインターナショナルヘビー級王座 グレーテスト18クラブ王座 - 初代王者 IWGPタッグ王座 - 第8代、第10代、第30代王者(パートナーはそれぞれマサ斎藤、飯塚孝之、佐々木健介) インターナショナル・タッグ王座 - 第35代王者(パートナーは谷津嘉章) NWA北米タッグ王座 - パートナーは坂口征二 UWA世界ヘビー級王座 - 第7代王者 UWA世界タッグ王座 - 初代王者(パートナーはグラン浜田) WMGタッグ王座 - 初代王者(パートナーは天龍源一郎) G1 CLIMAX - 第6回(1996年)大会で初の全勝優勝 SG TAG LEAGUE - 第2回(1992年)大会 得意技 [編集] 「力」という名前に相応しく、鍛えぬかれた肉体を駆使した力技・肉弾技が多い。また試合中に使う技の種類はレスラーの中でも比較的少ない方であるが、クラシカルなファンやマスコミの一部には逆に昭和プロレスの選手にして見ると使用する技の数が多いという声も存在する。 サソリ固め デビュー戦から一貫して使用し続けているフィニッシュ・ホールド。ファイトスタイルが変化していないため説得力を保ち続けている。別名スコーピオン・デスロック。カール・ゴッチ直伝とされる。 リキ・ラリアット スタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを受け続け、その威力を身をもって知った長州が自分の技にできないかと試行錯誤して習得した技。体格に優れたハンセン一人にしか使用できなかったラリアットをプロレス界に普及させた走りと言われている。なお、この技を使い始めた当初(「かませ犬発言」以前)は、左腕を使うことが多く、右腕でのラリアットが脚光を浴びたのは1983年4月3日に藤波を破ってWWFインターナショナル・ヘビー級王座を奪取した際の決め技になった時からである。 キチンシンク 全盛期の驚異的なスピードを誇った時代によく使用された。ロープカウンターからなので中型レスラークラスであれば、もんどり打って吹っ飛んだ。 捻り式バックドロップ 長州のバックドロップはルー・テーズ式の“へそで投げるバックドロップ”と異なり、相手背後から若干横抱き気味に取り付き、捻りを加えた独特なものになっている。師であるマサ斎藤が同様のバックドロップを得意としていたことで習得した。 ブレーンバスター 独特のフォームで放たれる。バックドロップとともに、しばしば「ぶっこ抜き」と表現される。 ストンピング グラウンド状態にある相手を片足で踏みつける技。プロレスではポピュラーな技の一つだが、長州のそれは踏みつける瞬間に大きくジャンプし、相手の名前を叫んだり、「立てコラ!」「来いコラ!」などと煽りを入れながら力強く踏みつけに行くため、たいへん迫力がある。スピード、タイミング、力強さ、どれをとっても他のレスラーの追随を許さず、本来つなぎ技であるストンピングで会場を沸かせることが出来るのは長州ぐらいだろうと言われている。 ジャーマン・スープレックス 大試合のここぞという時に使用している。1985年のジャンボ鶴田戦でも、60分時間切れの寸前に奥の手としてこの技を使用した。長州のジャーマンはブリッジがつま先立ちではなくベタ足のため、見た目は綺麗ではない。 ヘッドロック 序盤戦ではこの技を使うことが非常に多く、腕が太いためにガッチリと決まる。 太鼓の乱れ打ち 維新軍時代に頻繁に使用した技。タッグ戦においてタッグパートナーと二人がかり(6人タッグ戦の際は3人がかり)で相手の背中を太鼓に見立て、両拳で叩きまくる。個人技ではないため、タッグ戦のみに使用される。初披露時は場内の失笑を買った、見た目がコミカルな技である。 ハイジャック・パイルドライバー パイルドライバーの体勢で持ち上げた相手の両足かかとを自軍のパートナーが掴み、その体重をかけて叩きつける威力を増す技。 オクラホマ・スタンピード 相手を投げ落とした後、長州自身も吹っ飛ぶほど勢いがある。別名アバランシュ・ホールド。革命軍当時のインタビューで、この技はハルク・ホーガン初来日の際のシングルで喰らい(当時はまだアックスボンバーが開発されておらず、この技がホーガンの決め技だった)、数日体調を崩す程の威力だったため、必死に習得した、と述べている。 ドロップキック 全日本参戦時に使用した(新日本ではほとんど使わない)技。主にタッグマッチで、ダブルまたはトリプルで繰り出すことが多かった。 エルボー 相手をロープに振り、返って来たところに肘打ちを見舞う。打った後に回転する(この回転するムーブは長州独特のもの)。また、相手が腰を落としている状態で、背後から胸元に肘を振り落とすこともある。リキ・ラリアット同様、ハンセンから独自に習得した技である。 リバースチキンウィング(ウィングブリーカーホールド) うつ伏せダウン状態の相手の背後から両腕をダブルチキンウィングに固め、そのまま首を視点にブリッジして極める。サソリ固めと並ぶフィニッシュ・ホールドであったが、維新軍結成後は使用していないが後藤達俊が稀に使用することがある。また、ポイズン澤田JULIEはこの技を元にキャトルミューティレーションを開発した。 長州力の物真似をする主な有名人 [編集] 神奈月 有田哲平(くりぃむしちゅー) 三又又三 泉州力(オマージュプロレスラー) 長州小力 本人は小力について尋ねられた際、「昔から(特定の)レスラーを物真似する奴は多かったけど自分のは出ないだろうなと思っていたので驚いた」とコメントしている。 歌 [編集] 明日の誓い(1986年にキングレコードより発売。作詞:松本一起、作曲:宇崎竜童、編曲:佐藤宣彦) 語録 [編集] 「q:長州力」を参照 エピソード [編集] 性格 [編集] プロレスの責任者でいる時は、所属のプロレスラーが勝手なアクションを起こすことを良しとしない。 エル・サムライが、当時IWGPジュニアタッグ王座だった高岩竜一に勝ち、ノンタイトル戦なのにIWGPのベルトを強奪し、そのベルトを持ちながらインタビューで自己主張をあらわにした。これに対し、長州がインタビュー中に割って入り、「(ベルトを)貸せ!貸せオラ!」と怒りつつベルトをサムライの手から強引に奪った。これ以来、エル・サムライは自己主張をあまりしなくなった。 2005年、蝶野正洋・天山広吉がIWGPタッグ王座に挑戦を表明した。このことを聞かされていなかった長州は激怒し、舞台裏で「調子のいいこと抜かしてんじゃねえぞコラ!何が挑戦だ?」と怒鳴り散らし、乱闘騒ぎになった。 入場曲 [編集] 入場曲「パワー・ホール」は、作曲者の平沢進がプロレスに全く興味が無く、長州についても全く知らなかったため、依頼を受けて「頭の中のプロレス会場のイメージだけで作った。プロレスは嫌いなので適当に作った。」とされる[要出典]。この曲は同じフレーズが延々と繰り返される当時としては珍しいテクノ調の入場曲であった。なお作曲者クレジットは『異母犯抄』(異母犯妙の誤植、いぼはんみょう)という変名が用いられている[8]。ついでながら、『いぼはんみょう』とは平沢の好きな昆虫ハンミョウにいぼいぼがついたような姿をイメージしてつけたとのこと。当初から著作権買い取り契約の条件で発注され、その条件で納得した上で平沢も同曲を制作したため、曲が使用されても平沢自身に印税は入って来ない。 長髪の変遷 [編集] 長州といえば長髪が特徴であったが、過去に3度短髪にしている(1993年7月 - アキレス腱断裂・入院、復帰の際。1995年6月 - 越中とのタッグマッチに敗れ、リング上で自ら長髪を切る。1998年1月 - 引退後。)。1997年にも何度か髪を切っているが、目立った部分は前述の通りである。現在も長髪は維持しているが、全盛期程の長さはなく襟足が肩に乗る程度である。また近年はかなりの茶髪になっており、髪質もストレートからパーマになっている。 マスコミ嫌い [編集] マスコミ嫌いでも有名であり、かつては金澤克彦以外のマスメディアを拒否する姿勢であったが、WJ立上げの頃からマスコミの協力を仰ぐ姿勢を見せ始め、この点は多少改善しているとも言われる[要出典]。 試合前の時間にレスラーおよび関係者以外が控え室に入ることも極端に嫌う。ある時、興行関係者の親族の子供がサインを貰いに控え室に入った際も追い返そうとしたが、そばにいた木村健悟に、「オイ、サインぐらいしてやれよ」と言われ、しぶしぶサインに応じたことがある。維新軍団全盛期には、控え室の窓から中を覗こうとしたファンに怒り、スリッパで窓ガラスを叩き割り、「うるさい!」と叫んでいる記事が週刊プロレスに掲載された。 しかしそんな彼も例外的にファンにサインをしたことがあった。1988年9月、津山市総合体育館での試合の時に地元に住む長州のファンが訪れたことがあった。彼は先天性の不治の病と闘っていて車椅子に乗って花束を持って来場した。しかも彼は長くてあと1年しか生きられないと言うことだった。控室で彼は長州に花束を渡し、普段はファンに無愛想な長州も笑顔で「ありがとう、頑張れよ」と声をかけ、更に握手とサインもしていた[9]。 マスメディアへの露出 [編集] 1980年代の「かませ犬」発言以降の長州の人気は凄まじく、TBSでは長州を扱った1時間の特集番組(1984年12月)が組まれるほどであった(その番組内で、当時専修大学のレスリング部部長であった松浪健四郎(元衆議院議員)がコメントをした)。また、1983年に鈴木雅之の紹介で「笑っていいとも!!」のテレフォンショッキングにも出演し、次の友達に関根勤を紹介した。 人気が最高潮である1985年12月には、さだまさしのセイヤング」(文化放送)にゲスト出演。最後にさだ側から腕相撲をやりたいと要望があり、さだは両手で挑んだが当然負けた。2006年に「ズバリ言うわよ!」の新春スペシャルにゲスト出演した際には「子供達の会話に入っていけない」等3人の娘を持つ父親としての悩みを打ち明け、細木数子と他の出演者からどう接すれば良いか助言を貰っていた。なお、この放送の時、有田哲平は長州の出演で興奮気味で、本人の前で物真似も披露した(この番組で朝青龍とも共演)。 以前、岩手県内の某パチンコ店のコマーシャルに出演していたこともある。内容は長州の練習姿を数種類映した後、山盛りのパチンコ玉の前で箸を持った長州が「こんなん食えねーよ!」と吠える、という内容。他のCM出演として、日本ヴェルテック(関西地区のみ)、雪印ローリーエース、札幌のパチンコチェーンビッグスター等の出演がある。 「さんまのまんま」に出演した際には、「自分はタイトルをとってもなかなか防衛することが出来なかった」と話した折に明石家さんまから「あんた、弱いんだ?」とあっさり言われて苦笑した(事実、王者としては、シングル・タッグともに短命に終わることが多かった)。また「話が舌足らずで聴きづらい」というさんまに対し「自分ではそう思っていないが、人にはよく言われる」と答えている。 長州小力や有田哲平の影響 [編集] 冗談の通じない性格なのでテレビの露出は極めて少なくバラエティ番組等はもっての他だったが、「草野☆キッド」で小力と共演した頃から、バラエティへの出演が増えていった、その後の共演では互いに「小力」「長州さん」と呼び合うようになった。「ふんころがしの旅」(日本テレビ)では長州小力との旅行も実現している。近年、長州小力や有田哲平などの物真似により、若い世代や、全くプロレスに興味のない人にもその名を知られることになった。最近では試合中に「長州小力に動きが似てる」という理由で笑いを取ることもある。その一方で、2007年4月10日の「踊る!さんま御殿!!」で大沢あかねは、当初、長州小力を知りながら長州力を知らず、本物の長州力を見て相手を小力と勘違いして挨拶し、あとで人から指摘され、初めて長州小力が長州力の真似をしているのだと知ったと告白していた。 テレビゲーム登場 [編集] 1987年にリコーエレメックスが発売したファミコン用ゲーム「新人類」にタイアップ企画で出演。ゲーム中に主人公が最強状態にパワーアップすると長州力に変身してリキラリアットで敵を攻撃するというものだった。また広告やTVCMにも直接本人が出演していた。 インディー団体へのまなざし [編集] 2006年1月の最後(と当時謳っていた)の東京ドーム大会でのマッチメイクを「新日本対インディー」と呼んだことで他団体レスラー(特にビッグマウス・ラウド)から批判を受けた。因みにWJプロレス時期におけるインディー団体選手との絡みにより、現在ではかつてのようなインディー敵視は薄まっている。 パチンコ・パチスロ [編集] 新日本プロレス在籍時にはパチンコ「CR闘魂」(三星)の特別図柄(いわゆる「大当たり絵柄」)12として登場している。長州個人としては2007年にパチスロ「革命戦士長州力」(トリビー)が発売された。この機種では長州小力との競演を果たしている。なお、インターネット上の動画サイトに投稿されている「CR革命戦士長州力」なるパチンコの動画は、CR新世紀エヴァンゲリオンシリーズを元にした個人制作のものであり、実機では存在しない。 その他 [編集] エステーが発売する消臭剤「消臭力」は、長州力にちなみ、同社の会長兼社長・鈴木喬によって名付けられた[10] |
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