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志賀 賢太郎(しが けんたろう、男性、1974年12月6日 - )は、日本のプロレスラーである。茨城県勝田市(現・ひたちなか市)出身。フリー。本田多聞は、プロレス入門では同期にあたる。試合中に声帯を潰してしまったため、声がしゃがれている。
目次 [非表示] 1 人物 1.1 人柄 1.2 体重問題 1.3 難病との戦い 1.4 悪行への挑戦 2 略歴 3 タイトル歴 4 得意技 5 入場テーマ曲 人物 [編集] 人柄 [編集] 志賀はジャイアント馬場の最後の付き人であり、馬場が死去するまで5年間という異例の長さにわたって付き人を務めた。馬場は志賀の人柄をいたく気に入っており、終生付き人として用いた。秋山準も自身のブログで「新弟子よりも気が利く男」、「どこかの誰か(橋誠)とは違う」と評価している[要出典]。丸藤正道も「外見と中身が全く違う」と語っている。 2006年にコワモテの小悪党にヒールターンした後も相変わらず言葉遣いは丁寧で、セコンドに付いている際には試合中のレスラー、観客に気を配っている。2007年には、ヒールでありながらその「いいひと」ぶりが評価され、同年度の選手会長に就任している。 体重問題 [編集] 身長が高く将来を嘱望されたが、太りにくい体質であったためにヘビー級へのステップアップの障害となっていた。しかし靭帯骨化症からの復帰後は「体質が変わって100kgになった(歳のせい)」と本人は主張している[要出典]。 難病との戦い [編集] 2003年から首の負傷で長期欠場した。当初はヘルニアとされていたが、実際は靭帯骨化症と言う難病であった。このような難病を克服してリング復帰した苦労人であるため、流血戦の末白GHCを獲得しシングル初戴冠した時は、多くのファンがそれをたたえた。 悪行への挑戦 [編集] 2006年のヒール転向以降、数々の悪行を試みた。しかしキャラクターの方向性が「アニキ」「仁義」といったものに向かってからは、リング外での悪行はほぼ行っていない。 メイド喫茶へ行き、パンチパーマと100円ショップで買ったサングラス姿で店内を凍り付かせることに成功したものの、メイドさんと一緒に楽しめるゲームがビールを注文しないと出来ないと聞き、「昼間から酒を飲むことは出来ない」という真面目な理由で断念したこともある。また、これらの悪行を2006年5月19日・後楽園ホール大会のテレビ中継において、日本テレビの蛯原哲アナウンサーが解説のマイティ井上に説明したところ「あの志賀がですか・・・信じられませんね」と驚愕された。 試合前、タイツに凶器やブラシを隠しておいてはレフェリーに取り上げられるのが定番のやりとりとなっている。 略歴 [編集] 宮城県仙台第一高等学校卒業後に全日本プロレス入り。 1994年 2月21日、対浅子覚戦でプロレスデビュー。 2000年 6月、プロレスリング・ノア旗揚げと共に同団体へ移籍。 2003年 2月から首の負傷により長期欠場。当初は病名をヘルニアとしていたが、実際は靭帯骨化症と言う難病であったことが後々に明らかとなった。 2005年 9月18日、日本武道館大会の第一試合で同期の本田を相手に復帰。スキンヘッドに黒のロングタイツで登場し復帰を願うファンから贈られた千羽鶴を手に入場したが、自身の必殺技である志賀絞めで敗れた。 12月のクリスマス興行で任侠スタイル(着流しにパンチパーマ、「兄弟船」で入場)で登場。これが意外と評判が良く、本人曰く「手入れが楽でよい」ということで、このスタイルを継続することになった(通常は、その日限りで終わる)。 2006年 1月の開幕戦よりさらなるイメージチェンジを図り、パンチパーマにサングラス、無精髭をたくわえ、強面で小悪党スタイルのヒールレスラーに変身。 「どんどん悪いことをやっていく」と発言し、「まず合宿所の電気つけっ放し、水出しっぱなし」とそのワル具合を語る。 太田一平を無理矢理パンチパーマにしたほか、泉田純至にもアプローチし続け、パンチにさせることに成功。太田を「若頭」、志賀を「アニキ」、泉田を「叔父貴」とするパンチ軍団を結成。以降、「アニキ」は志賀の代名詞となった。 9月3日、愛知県体育館にてスコーピオから白GHC王座を奪取、第5代チャンピオンとなった。 10月20日、広島グリーンアリーナにて川畑輝鎮を相手に白GHC王座を初防衛。 11月29日、地元仙台サンプラザホールにて太田一平を相手に2度目の白GHC王座防衛に成功。 12月27日、ZERO1-MAXのリングにおいて、神風を相手にランバージャック・デスマッチルールによる防衛戦が行われ、セコンドのパンチ軍団の活躍もあって、3度目の白GHC王座防衛に成功した。 2007年 突如、白GHC王座を返上し、王者権限を使いタッグトーナメントを開催を宣言。自身は「カシラ」こと川畑輝鎮と組んで「パンパーズ(=パンチパーマブラザーズ)」を名乗り出場。決勝で潮崎豪・谷口周平組を破り第6代白GHC王者となった。 パンパーズとしてヨーロッパ遠征も行い、白GHC王座は防衛回数を重ねるもののパンパーズのライバルとなりうるタッグが現れず、個人のレベルアップを図るためとして川畑とのコンビを一旦解消することを決意。シングル王座に戻った白GHC王座を賭けた川畑との対決に敗れ、1年2か月保持していた同王座を「カシラ」に託すことになった。この試合は「負けたら坊主頭」の罰ゲームもあったため、志賀は潔くこれを受け入れ、自らのシンボルだったパンチパーマからも卒業することになった。 2009年 ハッスルの2代目モンスター℃選考オーディションに参加。ノア所属選手としては初のハッスル参戦となった(石森太二はノア入団前に参戦経験あり)。 タイトル歴 [編集] グローバル・ハードコア・クラウン(白GHC)第5代チャンピオン 2006年9月3日 スコーピオから奪取 2006年10月29日 初防衛 川畑輝鎮戦 2006年11月20日 2度目の防衛 太田一平戦 2006年12月27日 3度目の防衛 神風(ZERO1-MAX)戦 グローバル・ハードコア・クラウン(突如ベルトを返上し、タッグベルトとした)第6代チャンピオン(川畑輝鎮とのタッグ) 2007年2月17日 潮崎豪・谷口周平組戦 タッグトーナメントで優勝 2007年4月17日 初防衛 泉田純至・橋誠組戦 2007年7月4日 2度目の防衛 秋山準・谷口周平組戦 グローバル・オナード・クラウン チャンピオン(秋山準・力皇猛組)へ挑戦 2007年7月15日 秋山準・力皇猛組戦 敗退 得意技 [編集] 志賀絞め STFの形からフェイスロックをかけている腕を片羽絞めに移行し、さらに仰向けになることによって完成する複合サブミッション。命名は小橋建太で当時、復帰に向けてハワイでトレーニングをしていたことから「ワイキキビーチ」という安直な名前を提案され志賀が拒否したが、続けて出された名前が「志賀絞め」というさらに安直な名前で渋々承諾した。背後から絞められる上に片手・片足をロックされているため脱出が非常に困難で、対戦した秋山準も絞め落とされたことがあるが、フォールを狙う為途中でロックを外すこともあり、その場合は逆襲されがちでもある。 SSS(スパイラル・シガ・シューター) 相手を背後からボディスラムの体勢で持ち上げ、旋回させながらDDTのように落とす技。 コブラツイスト 卍固め よくコブラツイストから卍固めに移行することが多い ストレッチ・ボム/ストレッチ・バックブリーカー 元は小橋の技で、2006年度後半より頻繁に見せるようになった。終盤ではマットでなく自分の膝に叩き付けるバックブリーカーへと進化させている。 ロールパン(with カシラ) ローリング・パンチの略。コーナーに上がったカシラをアニキが投げつけることによって威力を上げたセントーン・アトミコ。 スイングDDT 相手の首をつかんだままコーナーへ乗り、そのまま反転して放つDDT。主に若手時代のフィニッシュ技。 各種関節技 ファイトスタイルを模索していた一時期、腕ひしぎ逆十字固めなどを使用していた。 入場テーマ曲 [編集] SOLID SKY/春畑道哉 TRADITION TRADITION '05 兄弟仁義/北島三郎(パンパーズ) 兄弟船/鳥羽一郎(パンパーズ) PR |
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