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【2025/05/02 17:10 】 |
スカル・マーフィー
スカル・マーフィー(Skull Murphy)のリングネームで知られるジョン・ジョセフ・マーフィー(John Joseph Murphy、1930年12月7日 - 1970年3月23日)は、アイルランド・コーク州生まれ[1]、カナダ・オンタリオ州ハミルトン出身のプロレスラー。
スキンヘッドに全身無毛の怪奇派ヒールとして、1950年代から1960年代にかけて活躍した。その怪異な風貌から、日本では「海坊主」の異名で呼ばれた[1]。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

幼少時にアイルランドからカナダへ移住後、病気で頭髪をはじめ全身の体毛を失う[2](日本では猩紅熱が原因とされている[1])。後に日本マットでも共闘した友人のムース・ショーラックによると、彼は全身無毛であることに生涯悩まされ続け、わずかでも毛が生えてくると、それを神経質なくらいに剃り落していたという[2]。
学生時代にプロレスラーのチャック・モルナーからプロレス入りを勧められ、ハミルトンのユダヤ系YMCAでジミー・シムズのトレーニングを受け、1952年にデビュー[2]。以降、ラリー・カサボスキー[3]が主宰していた地元オンタリオのNWE(Northland Wrestling Enterprises)を主戦場にキャリアを積んだ[2]。
1960年代初頭はアメリカ南部のNWAジョージア地区(後のGCW)でメインイベンターとなって活動し、1961年にガイ・ミッチェルらを破り南部ヘビー級王座を3回に渡って獲得[4]。1962年には日本プロレスに来日し、ゴリラ・マコニーと組んで力道山&豊登のアジアタッグ王座に挑戦。タイトル奪取は果たせなかったものの、試合後にムース・ショーラックらを呼び込んで力道山をリンチし、右胸鎖関節を亜脱臼させるというアングルで悪名を売った[1]。
1963年、同じくカナダ出身のブルート・バーナードと凶悪タッグを組み、ニューヨークのWWWFに参戦。同年5月16日にバディ・オースチン&グレート・スコットからWWWF・USタッグ王座を奪取し、11月14日にゴリラ・モンスーン&キラー・コワルスキーに敗れるまで保持した[5]。戴冠中の6月5日には、バディ・ロジャースからWWWF世界ヘビー級王座を奪取して間もないブルーノ・サンマルチノにも挑戦している[6]。
以降もバーナードとのコンビで活動し、1964年にフロリダ地区でNWA世界タッグ王座を2回獲得[7]。1966年にはジム・バーネットが運営していたオーストラリアのWCWに揃って遠征し、タッグ戦線を荒らしまくった[8]。バーナードの帰国後も単身でオーストラリアに定着し、同年8月にマーク・ルーインからIWA世界ヘビー級王座を奪取している[9]。以降1960年代後半は豪州マットを主戦場に、キラー・コワルスキーやキラー・カール・コックスを新パートナーにIWA世界タッグ王座を再三獲得、1969年にはバーナードとのタッグチームを再結成し、12月にディック・マードック&ラーズ・アンダーソンを破り通算9度目の(および生涯で最後の)戴冠を果たした[8]。
この間、日本には1968年7月に日本プロレスに再来日し、クロンダイク・ビルと組んで吉村道明&大木金太郎からアジアタッグ王座を奪取[10]。1969年5月にはバーナードとのコンビで来日、日本勢を相手に狂乱ファイトを繰り広げ、札幌と大阪でBI砲(ジャイアント馬場&アントニオ猪木)のインターナショナル・タッグ王座に連続挑戦した[11]。
1970年3月23日、ノースカロライナ州シャーロットにて死去。死因は心臓発作と報じられたが、睡眠薬の過剰摂取による服薬自殺ともいわれている[2](日本ではノイローゼによるピストル自殺とされている[1])。当日はシャーロットにて、バーナードと組んでミスター・レスリング&ザ・ケンタッキアン(ルーク・ブラウン)と対戦する予定だった[2]。
得意技 [編集]

ダイビング・ニー・ドロップ
エルボー・スマッシュ
獲得タイトル [編集]

NWA南部ヘビー級王座(ジョージア版):3回[4]
NWAインターナショナル・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / ジプシー・ジョー)[12] ※国際プロレスや全日本プロレスに来日した同名選手とは別人
NWA世界タッグ王座(フロリダ版):2回(w / ブルート・バーナード)[7]
WWWF USタッグ王座:1回(w / ブルート・バーナード)[5]
IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):3回[9]
IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):9回(w / ブルート・バーナード×5、キラー・コワルスキー×2、キラー・カール・コックス、トール・タナカ)[8]
アジアタッグ王座:1回(w / クロンダイク・ビル)[10]
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【2011/01/06 19:50 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
テッド・デビアス
テッド・デビアス[1](Theodore "Ted" Marvin DiBiase Sr. 、1954年1月18日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ネブラスカ州オマハ出身。WWF(現・WWE)ではミリオンダラー・マン(The Million Dollar Man)のニックネームで活躍した。
ウエスト・テキサス州立大学の出身で、ザ・ファンクス、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンの後輩に当たる。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 デビュー前後
1.2 全日本プロレスでの活躍
1.3 ミリオンダラー・マン
1.4 全日本プロレス復帰
1.5 引退
2 得意技
3 獲得タイトル
4 担当選手
5 備考
6 脚注
7 外部リンク
来歴 [編集]

デビュー前後 [編集]
往年の名レスラー、"アイアン" マイク・デビアスを父に持つが母の連れ子であるため血縁関係はない。15歳の時に心臓発作で父を亡くし、その後はアリゾナ州の祖父母のもとに預けられる。高校卒業後はテキサス州のウエスト・テキサス州立大学に進学してアメリカンフットボール部に所属しつつ(同期にティト・サンタナ、タリー・ブランチャード[2])、ザ・ファンクスのもとでトレーニングを受け、大学中退後の1974年にプロレスラーとしてデビュー。以降、アマリロ、セントラル・ステーツ、ミッドサウス地区で活躍。
1979年、ニューヨークのWWFに短期間参戦し、当時保持していた北米ヘビー級王座をパット・パターソンに奪われている。これがインターコンチネンタル王座と改名され現在に至っている(北米ヘビー級王座は同年11月にパターソンを破った坂口征二が第3代の王者となり、以降は新日本プロレスが管理)[3]。その実力で早くから注目され、1978年2月にディック・スレーター、1980年11月にケン・パテラを破り、NWA世界ヘビー級王座の登竜門といわれたミズーリ・ヘビー級王座を2度獲得[4]。一時期はリック・フレアーと並び「次期NWA王者最有力候補」とも呼ばれた。
全日本プロレスでの活躍 [編集]
1976年8月に全日本プロレスにファンク一家の一員として初来日を果たし、以降も技巧派レスラーとして参戦を続ける。しかし1981年末のスタン・ハンセン全日本移籍の報復措置として新日本プロレスから誘われ、キラー・カーンの仲介で契約寸前まで行くも、団体間で紳士協定が結ばれ移籍は白紙撤回された。
1985年に新日本に移籍したブルーザー・ブロディに代わりスタン・ハンセンのパートナーとなり、PWF世界タッグ王座を獲得、さらには同年の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝を果たす。1983年には天龍源一郎との決定戦を制し、アントニオ猪木・坂口征二・高千穂明久・ジャンボ鶴田と受け継がれたUNヘビー級王座を獲得した[5]。
ミリオンダラー・マン [編集]
1980年代はビル・ワットのMSWAを主戦場としていたが、1987年にWWFに再登場。「急逝した父親の莫大な財産を受け継ぎ、一生遊んで暮らすこともできるが、暇を持て余しているので暇潰しにプロレスをやることにした」という、嫌味な金満ギミックのミリオンダラー・マンとしてヒールで活躍。その金満キャラゆえ、現在でも設定上「配管工の息子から成り上がった」 "アメリカン・ドリーム" ダスティ・ローデスを嫌悪している(もっともダスティを嫌う理由は「先に殿堂入れされたから」というものもある)。なお、黒人ボディーガードとして従えていたマイク・ジョーンズのリングネーム "バージル" は、ダスティの本名でもある。
WWF世界ヘビー級王座こそ獲得できなかった(アンドレ・ザ・ジャイアントから金で買ったというストーリーがあったが、当然公認はされていない)ものの、ハルク・ホーガン、ランディ・サベージ、ジェイク・ロバーツらトップスターと長期間に渡って抗争。タッグでは、IRSことマイク・ロトンドとのマネー・インコーポレーテッドでWWF世界タッグ王座を3度奪取した[6]。
1994年からはマネージャーとしての活躍が主となり、ミリオンダラー・コーポレーションなるヒール軍団を組織してブレット・ハートやジ・アンダーテイカーと敵対。スティーブ・オースチンらが彼のもとで実力をつけ、後に団体を牽引するトップスターへと上り詰めている。この間、1990年4月1日の日米レスリングサミットではアルティメット・ウォリアーのWWF王座に挑戦して敗れている。
全日本プロレス復帰 [編集]
1993年、一時全日本プロレスに復帰。ハンセンとのコンビを復活させて世界タッグ王座を獲得。同年の最強タッグでもハンセンと組んで出場したが序盤で負傷帰国、ハンセン&ジャイアント馬場のタッグチーム実現の伏線となった。
引退 [編集]
1996年にWCWに移籍、nWoのマネージャーになるが首の故障が癒えず引退。引退後は宣教師に転身し、チャリティ活動を行いつつ、プロレスのリングにも時折登場する。2005年に2人の息子マイク・デビアス、テッド・デビアス・ジュニアがプロレスラーとしてデビュー、継父も含めて親子3代でプロレスラーとして活動することとなった(後に三男のブレット・デビアスもデビュー)。
現在は宣教師活動の一方、WWEでプロデュース業務を担当。2009年7月6日にはRAWのホストを務めた。2010年、WWE殿堂に迎えられている。
得意技 [編集]

ミリオンダラー・ドリーム(コブラクラッチ)
ミリオンダラー・バスター(ミリオンダラー・ドリームを極めたままでの河津落とし)
フィストドロップ
スクープ・サーモン(全日本でのフィニッシュ・ホールド)
獲得タイトル [編集]

NWA
NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / アルヴィン・スミス、メルセッド・ソリス)
NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ディック・マードック)
NWA北米ヘビー級王座(トライステート版):1回
NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:2回
NWAミズーリ・ヘビー級王座:2回
NWAナショナル・ヘビー級王座:2回
NWAナショナル・タッグ王座:2回(w / スタン・フレイジャー、スティーブ・オルゾノスキー)
MSWA
ミッドサウス北米ヘビー級王座:4回
ミッドサウス・タッグ王座:4回(w / マット・ボーン、ジェリー・スタッブス、ヘラクレス・ヘルナンデス、スティーブ・ウィリアムス)
WWF / WWE
WWF北米ヘビー級王座:1回
WWF世界タッグ王座:3回(w / IRS)
WWE Hall of Fame:2010年度
全日本プロレス
UNヘビー級王座:1回
世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン)
PWF世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン)
担当選手 [編集]

1994年にセミリタイアし、マネージャーとして以下の選手達を担当した(WWFでのデビアス本人のマネージャーは、バージルと仲間割れ後の1991年よりセンセーショナル・シェリー、1992年からはジミー・ハートが務めた)。
WWF / ミリオンダラー・コーポレーション
イーヴィル・アンダーテイカー
ニコライ・ボルコフ
IRS
バンバン・ビガロ
タタンカ
キングコング・バンディ
カマ
1-2-3キッド
ヘンリー・O・ゴッドウィン
サイコ・シッド
"ザ・リングマスター" スティーブ・オースチン
WCW
nWo
スタイナー・ブラザーズ(リック&スコット)
レイ・トレイラー
クリス・ベノワ
備考 [編集]

スタン・ハンセンのパートナーとして
現役時代はその試合巧者ぶりが高く評価されており、とりわけスタン・ハンセンとのコンビは名タッグと言われている。ハンセンとのコンビ結成当初は前任のブルーザー・ブロディと比べられることもあったが、ブロディとは異なりデビアスが卓越したテクニシャンタイプであること、ハンセンを徹底的にサポートしてハンセンが闘いやすいように試合を作れたことが次第に認められていった。ジャイアント馬場は1993年にハンセン&デビアスがコンビ再結成を果たした第1戦目の試合のTV解説において「この2人は昔から素晴らしいコンビでしたよ」と絶賛していた。1985年のタッグリーグ戦優勝の際には、リング上でマイクを掴んだパートナーのハンセンから「Ted DiBiase is No.1!」という賞賛を受けている。
ハルク・ホーガンとの関係
1987年にWWF移籍のニュースが日本に伝えられた際、日本のプロレスファンはWWF王者ハルク・ホーガンとの対戦を「新日・全日代理対決」として注目していた。なお、ホーガンのWWFにおけるMSGでのデビュー戦の相手はデビアスが務めている(1979年12月17日)[7]。WWFではホーガンのライバルとして抗争を繰り広げたが、WCWではnWoの「後援者」として短期間ながらホーガンと結託した。
脚注 [編集]

^ ファミリーネームは正確にはディビアーシと発音する。
^ “Tully Blanchard: The Most Dangerous of the Four Horsemen”. Associated Content. 2010年2月5日閲覧。
^ “WWF North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
^ “NWA Missouri Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年4月27日閲覧。
^ “NWA United National Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
^ “WWE Official World Tag Team Championship Title History”. WWE.com. 2010年4月27日閲覧。
^ “WWE Yearly Results 1979”. The History of WWE. 2008年7月11日閲覧。
【2011/01/05 02:00 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ザ・デストロイヤー
ザ・デストロイヤー(The Destroyer)のリングネームで知られる、アメリカ合衆国・ニューヨーク出身の元プロレスラー(1931年7月11日 - 、本名:リチャード・ベイヤー、Richard Beyer、「リチャード」の愛称であるディック・ベイヤーとも呼ばれる)。正式なリングネームはジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)である。アメリカでは、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤー(Dick "The Destroyer" Beyer)として知られる。
日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして力道山、ジャイアント馬場などと戦った他、テレビタレントとしても活躍した。大の親日家としても知られる。
目次 [非表示]
1 プロフィール
1.1 デビュー
1.2 WWA世界ヘビー級チャンピオン
1.3 日本での活躍
1.3.1 覆面世界一決定十番勝負
1.3.2 金曜10時!うわさのチャンネル!!
1.4 アメリカでのレスリングスタイル
1.5 引退
2 得意技
3 エピソード
4 主なタイトル
5 家族
6 関連項目
7 外部リンク
プロフィール [編集]

デビュー [編集]
シラキューズ大学在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、アマチュアレスリングでも実績を残していたため、1954年にアメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーも並行して始める。
WWA世界ヘビー級チャンピオン [編集]
当初は本名・素顔で試合を重ねてきたが、1962年に覆面レスラーに転向。白地に赤や青の縁取りを付け目と鼻、口の部分を開けたマスクを着用して試合に臨み、WWA世界ヘビー級王座を獲得。通算3度WWA世界ヘビー級チャンピオンとなる。
日本での活躍 [編集]
その後1963年に初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界選手権を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレス、全日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。
初対戦の頃は「馬場を血だるまにしてKOした(このような公式記録はない)」と言われる大ヒールのデストロイヤーであったが、全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言(日本陣営が手薄だったことから馬場が引っ張り込んだという説が今では支配的)、敗れたデストロイヤーはその後6年余りの間全日所属選手として参戦し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスなどと名勝負を残した。
日本プロレスでのアントニオ猪木とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。
全日本プロレスでは若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田や大仁田厚、渕正信らが教えを受けている。
覆面世界一決定十番勝負 [編集]
また「NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗ることは出来ない。世界の強豪マスクマン10人を破って初めて世界一を名乗れる」というアングルに端を発する『覆面十番勝負』は、1974年7月25日のミル・マスカラス戦を皮切りに、1976年8月28日のスーパー・デストロイヤー戦まで2年間に渡って行われた。キラー・カール・コックスが変身したザ・スピリット、ディック・マードックが変身したザ・トルネードなどの急造マスクマンも多く含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれるミスター・レスリング、ジ・アベンジャー、カリプス・ハリケーン、スーパー・デストロイヤーら実力者相手の連戦で「タイガーマスク」のストーリーにも似た興奮を醸し出した。なお覆面を模ったオリジナルチャンピオンベルトも存在する。
金曜10時!うわさのチャンネル!! [編集]
またそのユニークなキャラクターから、日本テレビ系で放送されたバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(司会:和田アキ子、せんだみつおら)にレギュラー出演し、コメディアンとしてのセンスを見せリングの外でも人気を博した。番組中徳光和夫に足4の字固めを仕掛け、徳光が「明日子供の授業参観なのに」「俺はギャラが出ないんだぞ!」と叫びながら悶絶する姿が見られた。
アメリカでのレスリングスタイル [編集]
日本ではベビーフェイスとして活躍したが、アメリカではもっぱらヒール役に徹していた。1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターX」を名乗り、バーン・ガニアを倒しAWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。
引退 [編集]
アメリカに戻ってからは年1回、全日本プロレスの「サマーアクションシリーズ」での特別参戦を続け、1993年に引退。その後アメリカ・アクロンの高等学校で体育教師、水泳教室のインストラクターも務めた。
しかしその後もたびたび来日し、日本のプロレス界やマスコミに登場を続けている。2007年には「レッスルキングダム2」の宣伝のためにブッチャーと共に登場した。
2007年12月20日に有明コロシアムで行われた、アントニオ猪木が主催するIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)プロレスリング「GENOME2~猪木 Fighting Xmas~」に特別立会人として来日。カート・アングルとケンドー・カシンの一戦では、場外でイスを振るおうとしたカシンを制止し、会場のファンから大歓声を浴びた。
得意技 [編集]

必殺技は足4の字固め。デストロイヤー以前にはバディ・ロジャースがほぼ同じ技をスピニングレッグロックとして使っていたが、フィギュアフォーレッグロックと呼び自身の看板技として広めたのはデストロイヤーである。若い頃のドロップキックは「誰よりも高く飛ぶ」と言われた。またヘッドバット、フライング・ボディシザース・ドロップ、モンキーフリップ(巴投げに近い技)、倒立してのダブルニードロップなどもよく使われた。
エピソード [編集]

プロレスの歴史上初めて、マスクマンとしてヘビー級のトップ戦線で活躍したプロレスラーである。覆面をかぶったのは、当時プロレスラーのライセンスを取得していなかったため、大きな団体で試合をするには正体を隠す必要があったことと、さまざまなスポーツ(アメフトだけでなく、野球、レスリングでも活躍していた)をやっていたせいで前歯が折れていた事から、素顔をさらすのに躊躇したためといわれる。また、素顔は優しい顔立ちの人物である事から、マスクで隠す事でより迫力を出すためであったともされる。空港でもマスクを外さず、「ボク、デストロイヤー」と言って搭乗口を出ようとしたこともあるほど素顔を露出しなかったといわれているが、その一方で、ゴルフ練習場では暑かったのかマスクをその場で脱いでクラブを振るなど、よく分からない面もあった。
第5回ワールド大リーグ戦の決勝戦前、リング上の力道山とキラー・コワルスキーの前にWWA世界チャンピオンとして来日したデストロイヤーは、次期シリーズに力道山相手に防衛戦を戦う旨のあいさつに訪れた。コワルスキーに手を差し出し握手するかに見えたデストロイヤーは、そのままつかつかっとコワルスキーに近づくと、平手でぴしゃっとコワルスキーの頬を張った。コワルスキーは顔色を変えたが、大事な試合の前とあって乱闘にもならず試合が始まった。この時のことについて、後にデストロイヤーがインタビューで語っている。握手を求めたデストロイヤーに対し、コワルスキーは横を向いて「ローカルチャンピオンが・・・」とつぶやいたらしい(確かにWWAはアメリカ西海岸を主な勢力圏とする、NWAに比べればローカルな団体ではあった)。WWAという団体の看板を背負っている以上、アクシデント(ユーコン・エリックの耳をニードロップでそぎ落とした)で有名になった男ごときにばかにされて黙っているわけにいかない。当時の自分としてはそんな気持ちだった、という。
1963年5月23日、静岡県駿府会館において、力道山との世界戦前日にジャイアント馬場と時間無制限1本勝負を行ったが、デストロイヤーはこの試合いつもの白覆面ではなく、“デビルマスク”と呼ばれる黒覆面を被ってリング上に登場した。“白覆面の魔王”ザ・デストロイヤーとして日本で行われた試合で黒覆面を被ったのはこの試合だけである。のち「ドクターX」のリングネームで黒覆面を被った(来歴・人物の項参照)。
翌5月24日、東京・千駄ヶ谷の東京体育館で行われた力道山とのWWA世界タイトルマッチは、日本プロレス史上に残る名勝負となった。力道山の空手チョップで前歯をへし折られながらも、ついに必殺の4の字固めに捉えたデストロイヤー。ところが力道山はギブアップせず、体を反転させて裏返しになり4の字固めをかけられたまま上から逆にデストロイヤーの足を責めつけた。そのまま二人は二転三転、どちらもギブアップしない。ついにレフェリーはこれ以上やったら二人とも死ぬ、と叫んで引き分けを宣した。試合後も両者の足は複雑に絡み合いなかなか外れなかったという。
愛妻家として知られ、マスクも夫人の手作りのものであった。
マスクをしたまま、自動車を運転していたことが目撃されている。
親日家であり、現在でも毎年最低一回は日本を訪れている。麻布十番納涼まつりで毎年チャリティサイン会を行なっているほか、自らのレスリングの少年チームを率いての来日もある。十番祭りでは毎年様々なグッズを持って来日し、サイン会場となっている携帯電話ショップの前はいつも大渋滞である。このことから現在の日本においても非常に有名な選手であることが伺える。
かつて日本に住んでいたのは麻布十番にも程近い港区の三ノ橋近辺である。
日本のプロ野球界に来る助っ人外国人選手との交流も有名で、約8年間の滞日経験を生かし、多くの外国人選手の良きアドバイザーとなった。ランディ・バースやレロン・リー、レオン・リー兄弟、同郷のマット・ウインタースなどは彼への感謝をいまだに忘れないと言う。
ジャイアント馬場と全日本プロレスに対する信頼はかなりのもので、新日本プロレスから移籍して来たスタン・ハンセンに対して「スタン、君の移籍は大正解だ。私は全日本立ち上げから馬場と共にしてるが、一度も嫌な思いをさせられた事はない」と声をかけ、ハンセンを安心させた。なお、デストロイヤーは1975年の初来日時のハンセンの対戦相手も務めた。さらに1999年5月2日東京ドーム、馬場没後の「引退記念試合」に際し、最後の「タッグ・パートナー」に指名され、ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー組と「対戦」。挨拶では日本語で「社長、ほんとうにお疲れさまでした」と声をかけ、会場中の涙を誘った。
ザ・デストロイヤーのマスクは、女性用のガードルから作られている。マスクマンになる時、妻と一緒に女性用下着売り場に行き、変な目で見られたそうである。購入したガードルを使用して、妻が加工し直した物をマスクとして使用していた。
主なタイトル [編集]

WWA世界ヘビー級王座:3回(覆面レスラーの世界王者は初めて)
WWA世界タッグ王座:2回(w / ハードボイルド・ハガティ)
アジアタッグ王座:1回(w / ビリー・レッド・ライオン)
AWA世界ヘビー級王座:1回(ドクターXとして)
PWF・USヘビー級王座:4回
インターナショナル・ヘビー級王座:1回(モントリオール版)
家族 [編集]

息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。
【2011/01/05 01:59 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ティト・サンタナ
ティト・サンタナ(Tito Santana、1953年5月10日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州出身のメキシコ系アメリカ人。本名はメルセッド・ソリス(Merced Solis)。
元WWFタッグ王者、元WWFインターコンチネンタル王者(それぞれ2回に渡って獲得)[1][2]。1980年代から1990年代前半にかけてのWWF(現・WWE)では、スピーディーでクリーンなレスリングを身上とした甘いマスクのベビーフェイスとして女性観客の声援を集めた。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

ザ・ファンクス、ダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンらを輩出したウエスト・テキサス州立大学の出身[3]。大学時代はアメリカンフットボールで活躍、同期のチームメイトにはテッド・デビアスやタリー・ブランチャードがいた[4]。卒業後はNFLのカンザスシティ・チーフスのトレーニング・キャンプに参加し、その後CFLのBCライオンズに入団するが[3]、1977年、大学の先輩であるザ・ファンクスのトレーニングを受けてプロレスラーとしてデビュー[5]。テキサスのアマリロ地区でキャリアを積み、1978年10月には全日本プロレスに初来日している(経緯は不明だが、リッキー・スティムボートの本名「ディック・ブラッド」の名義で来日した[6])。
1979年、ティト・サンタナのリングネームでニューヨークのWWFに登場。同年10月22日、イワン・プトスキーとのコンビでバリアント・ブラザーズ(ジョニー・バリアント&ジェリー・バリアント)を破りWWFタッグ王座を獲得した[1]。同王座は翌1980年4月12日にワイルド・サモアンズに奪取されるが、1980年代期待の新星として注目を浴びることとなった。
王座陥落直後、4月25日より開幕した新日本プロレスの第3回MSGシリーズに来日。予選トーナメントで敗退し決勝リーグ進出は果たせなかったものの、そのフレッシュなファイトスタイルで高評価を獲得した(戦績は、トーナメント1回戦でスタン・ハンセンに敗退。敗者復活戦では1回戦でジョニー・パワーズから勝利を収めるも、2回戦でストロング小林に敗れた)。
1981年から1982年にかけてはAWAをサーキットし、ニック・ボックウィンクルのAWA世界王座に挑戦。同時期にWWFからAWA入りし、当時売り出し中だったハルク・ホーガンともタッグを組んで活躍した。
1983年、WWFと再契約。1984年2月11日にはドン・ムラコからWWFインターコンチネンタル王座を奪取する[2]。同年9月24日にグレッグ・バレンタインに敗れて一旦王座を失うが、1985年7月6日に奪還。以降、1986年2月8日にランディ・サベージに王座を明け渡すまでIC王者として活躍した[2]。
その後もWWFに定着し、1987年にはリック・マーテルとの二枚目タッグチーム、ストライク・フォース(Strike Force)を結成。同年10月27日、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)を撃破しWWFタッグ王座への2度目の載冠を果たす[1]。1988年3月27日のレッスルマニアIVでデモリッション(アックス&スマッシュ)に王座を奪われてからもコンビを継続させるが、翌1989年4月2日のレッスルマニアVでのブレーン・バスターズ(アーン・アンダーソン&タリー・ブランチャード)戦の同士討ちでマーテルがヒールターン。チームは自然消滅し、以降マーテルとの熾烈な抗争を展開する。同年10月14日のキング・オブ・ザ・リングでは決勝戦をマーテルと争い、優勝を飾った[7]。
1990年4月13日には東京ドームで行われた日米レスリングサミットに出場し、10年振りの来日を果たしている(ジミー・スヌーカと組んで渕正信&小橋健太に勝利)。1991年からはメキシコの闘牛士をイメージしたギミック、エル・マタドール(El Matador)に変身。並行してWWFのスペイン語放送のカラー・コメンテーターも兼任した。
1993年、10年間に渡って在籍したWWFを離れ、初期のECWに参戦。同年8月8日、WWF時代の宿敵ドン・ムラコからECW世界ヘビー級王座を奪取した[8]。その後もインディー団体を転戦し、1994年にはイリノイ州シカゴのAWFでボブ・オートン・ジュニアを破りAWFヘビー級王座の初代チャンピオンとなった。2000年1月10日にはWCWのマンデー・ナイトロに登場し、ジェフ・ジャレットと対戦している。
2004年、WWE Hall of Fameを受賞(プレゼンターはショーン・マイケルズ)。近年は、アイゼンハウアー・ミドル・スクールにてスペイン語の教員をフルタイムで務めるかたわら、時折インディー団体の試合に出場している[9]。
2010年11月15日、"Old School edition" と銘打って行われたスペシャル版のRAWに出演、久々にWWEに登場した[10]。
得意技 [編集]

フライング・フォアアーム
ドロップキック
フィギュア・4・レッグロック
獲得タイトル [編集]

NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:1回(w / テッド・デビアス)
WWFタッグ王座:2回(w / イワン・プトスキー、リック・マーテル)
WWFインターコンチネンタル王座:2回
ECW世界ヘビー級王座:1回
AWFヘビー級王座:2回
WWE Hall of Fame:2004年度
 etc.
【2011/01/05 01:59 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
フランシスコ・イスラス
フランシスコ・イスラスことフランシスコ・パントゥージャ・イスラス(Francisco Pantoja Islas、男性、1973年12月3日 - )は、メキシコのプロレスラーである。リングネームスーパー・クレイジー(英語読み)またはスペル・クレイジー(スペイン語読み)(Super Crazy)で知られる。イダルゴ州出身。
目次 [非表示]
1 経歴
2 得意技
3 入場曲
4 タイトル歴
経歴 [編集]

1991年プロレスデビュー。ECW時代の活躍が有名であり、場外乱闘において、観客席の2階からムーンサルトプレスを敢行したのが語り草になっている。TAJIRIの好敵手として何度も対戦し、両選手とも高い評価を受けた。
ECW崩壊後は日本のZERO-ONEなどに出場していた。なお、ZERO-ONEにおいても観客席2階からのムーンサルトプレスを敢行している。ZERO-ONE参戦時代は、ハッスルへ「スペル・ウィルス」のリングネームで参戦したこともある。
2005年6月12日にWWE ECW's One Night Stand出場。ここでも観客席の2階からムーンサルトプレスをFBI目掛けて敢行している。その後WWEと契約。プロレスラーのユニット、メキシクールズ発足とともにSmackDown!を活動の中心としている。
2007年にはRAWへ移籍。ヒートなどのWWE枠に出場することが多かったが、ハクソー・ジム・ドゥガンとの異色タッグで会場を盛り上げていた。
2008年6月の補足ドラフトにて古巣であるECWへの移籍が決定するも、なぜかSmackDown!へ移籍。
2008年11月にWWEを自主退団した。
WWE退団後はメキシコの団体やプエルトリコのIWAで活動中。2009年2月14日には自身3度目となるIWA・IC王座を獲得した。
2009年9月現在、全日本プロレスに参戦中。
得意技 [編集]

ムーンサルトプレス
場外へ放つものや、トップロープに足をかけて繰り出すものなど、バリエーションは豊富である。
モスカエスパニョーラ
コーナートップで相手をロック・ボトムのように抱え、相手もろともバック宙して背中からマットに叩きつける技。オリジナルはフランキー・カザリアンのフラックス・キャパシター。
クレイジーボム
腕をクロスさせてのパワーボム
ロメロ・スペシャル
田中将斗とのタッグでは、この状態からフェイスバスターに繋げる連携も見せる。
卍固め
ロープを背にした卍固めからタランチュラに繋ぐ連携も得意とする。
入場曲 [編集]

El Guerrero Nomad
ECW時代に使用
Muy Loco-現在使用中
タイトル歴 [編集]

ECW
TV王座 : 1回
NWA
カナダ王座 : 2回
カナダジュニアヘビー級王座 : 1回
IWA
IC王座 : 3回
ジュニアヘビー級王座 : 3回
ハードコア王座 : 9回
UWA
ジュニアヘビー級王座 : 1回
ウェルター級王座 : 2回
CMLL
タッグ王座 : 1回 (&El Hijo del Gladiator)
ZERO-ONE
インターナショナルジュニアヘビー級王座 : 1回
【2011/01/03 23:16 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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